シンポジウム 沖縄イメージと風景・身体・記憶 

8/29 田仲康博、新城和博 / 8/30 末永航、花城郁子 / 8/31 大胡太郎、多田治

 


新城和博(2006/8/29 沖縄タイムス)


 頭の中を、またまた「沖縄イメージ」という響きがぐるぐると回りはじめて、眠れない夜を迎えようとしていた昨日の晩、これまたなぜだか寝付けずにいた小学生の娘が、「原稿は書けたわけ?」と聞いてきた。
 「まだだよ」と答えたら、「なんのこと書くの?」としつこく尋ねる。僕は、正直に言えば意味が分からずに飽きて寝るだろうと「『沖縄イメージ』について」と答えた。すると娘は、「そういえばこの前、暇だった時に、みんな(彼女の友だち)で『沖縄と言えば?』って遊びしたよ」と言うではないか。「『沖縄イメージ』って何?」という質問に答えようとしていた僕は、俄然興味が出て、逆に聞いてみた。
「どうゆうこと言っていたの、みんなは」「沖縄と言えば……暑い。海がきれい。ゴーヤーチャンプルー。沖縄そば。色が黒い」「へぇー。じゃあ『米軍基地』とかは?」「あった、あった。沖縄戦って言うのもあったよ」「『ちゅらさん』とかは」「? 無かったよ」。ちなみに「おばぁ」というのも挙がらなかったそうだ。なるほどねぇとなぜだか感心する。
 沖縄の小学生何名かでの間で交わされた、たわいもない言葉遊w?び「沖縄と言えば……」の話を聞きながら、僕は今から十五年以上も前に編集した『おきなわキーワードコラムブック1、2』(89、90年刊行)のことを思い出さずにはいられなかった。
 当時、僕は、沖縄が観光地として「リゾート沖縄」と称されるのに違和感を覚える一方で「方言もしゃべれない、沖縄戦も知らない、復帰運動も知らない君たちは、うちなーんちゅじゃないね」と上の世代に言われることについても、軽いいらだちがあった。
 「沖縄戦」を体験した世代の息子・娘として生まれ、「日本復帰」を小学校で迎えて、中半端な高速道路を通って「海洋博」へ家族そろって遊びに行った僕たち。1セントを握りしめて、まちや小(雑貨店)に買い食いしていた頃、子ども心に焼き付いた与儀公園からスタートする抗議デモの風景。右側交通から左側交通へと一夜にして(準備期間はありますが)変わった「730」の記憶。それらを当時、何の違和感もなく受け入れていた僕たちだって、いや、だからこそ僕たちなりの「おきなわ」と呼ぶべきイメージがあるはずだ。その頃「青い空と青い海だけじゃない」(「沖縄ロックン・ロール」)とシャウトした?,\同世代のコザのR&Bバンド「ワルツ」のローリーのように、僕もまた、これまでとは違う沖縄イメージを表現したかったのだ。それまでの「沖縄イメージ」じゃ満足できなかったのだろう。それで地元出版社の駆け出しの編集者として、身近な同世代の沖縄人たちに、「あなたにとって、おきなわを感じさせる言葉は?」と片っ端からショートコラムを書いてもらい、一冊の本に「軽く読める事典」という形式にしてまとめたのが、『おきなわキーワード……』という訳だ。
 結局その本は大ヒットして、90年代前半の沖縄のサブカルチャーに影響を及ぼすことになったのだけど、それは「沖縄といえば……」と遊んでいる子どもたちの高揚感と、そんなに違いはないかもしれない。「おきなわ」を大げさな言葉で、大きく語らない。「おきなわ」を細分化し、個々の感触として語れば、これまでなじみの「おきなわ」の姿が、鏡の中で少し変わって映っていた。それを当時僕は「おきなわは、おもしろい。おきなわは、ポップだ」と表現してみた。
 でもあれから何度かの「沖縄ブーム」のさざ波と大波の中で、「おきなわは、おもしろい」というテーゼは、今、売り物w?としての沖縄の生活文化の前提となっている(こんなはずじゃなかったんだけどな!)。今こそ「沖縄と言えば……」と子どもたちのように聞いてみたいのだけど、いったい誰に問えばいいのだろうか。それこそが問題なのだ。
眠れない夜は、まだ続きそうだ。

プロフィール
しんじょうかずひろ  1963年那覇市生まれ。沖縄県産本編集者。著書に「うっちん党宣言」「道ゆらり」他。


田仲康博 (2009/8/29 琉球新報)

『夢幻琉球−つるヘンリー』(高嶺剛監督、一九九八年)の製作にかかわって、翻訳
の仕事をしたことがある。「白雲節」の英訳にはとくに神経を使った。映画のなかで
像の檻を背景に大城美佐子が歌うこの曲は、映画全体のトーンを決める重要な役割を
担っている。
日本語の対訳が準備されていたので、とりあえず日本語から英語へ訳してみた。しか
し、できあがった訳文はどうもしっくりこない。英文の歌詞からは曲の情感がまるで
伝わってこない。あれこれ表現を変えてはみたが、翻訳文をさらに翻訳することで欠
け落ちる何かをうまく掬い取れずにいた。
結局、日本語訳を参照しながら、ウチナー口から英語へ直接翻訳する方法に落ち着い
た。それでなんとか形にはなった。しかし、三つの言語の間を行き来しながら言葉を
選ぶ作業は、私をひどく不安にさせた。沖縄語、日本語、英語のいずれも、それなり
に使えるつもりだった。しかし、どの言語も、どこか身体にしっくりこない感覚を残
した。
少なくとも日本語に関しては、久しぶりに抱いた違和感だった。言葉が剥がれ落ちて
いくような感覚とともに、そのとき私はある言葉の響きを思い出していた。復帰前、
標準語励行運動のさなかに聞いた「かまきり」という音の響き。「これが正しい発音」
だと言われても、それは棒読みに近かった私たちの発音とあまりにも異なっていた。
教師が発音するたびに皆で笑い転げたものだ。しかし、そのうち私たちは「正しい」
言葉を習得し、もとの音を忘れてしまった。
音が変われば、身体も変わる。子供たちは、復帰運動を底辺で支える「小国民」の役
割を担わされていたのだ、と今にして思う。私たちは、フェンスやスクリーンの向こ
うの「アメリカ」に憧れる一方で、写真やテレビを通して見た「本土」の風景にも胸
をときめかせた。遠い土地への憧れは、自分が住む土地への過剰な嫌悪感に容易に反
転される。「因習に閉ざされた島」と、どこかで聞きかじった言葉をノートに書きつ
けたこともある。
 「方言」と「標準語」の間に距離が生じたように、生まれ育った島の風景と本土の
風景との差異が強調され、いつのまにか後者の方に郷愁を抱いてしまう…。国語教育
の成果は意外なところに現れた。沖縄ブームの今、視線は内側へと折り返され、風景
は異なった顔を見せる。しかし、それは表層の風景が反転しただけであって、今も昔
も底の方では同じ国家や資本の力が働いている。
さまざまな<枠組み>の流動化が個人の自由をもたらすことはなかった。むしろ私た
ちは、それぞれの私的空間に囲い込まれただけだ。資本は、パーソナル化の一途を辿
るメディアを経由して個々の身体に直接働きかけ、市場へ放り込む。
 沖縄イメージ誕生のプロセスにかかわる政治や資本の力を考えると、イメージはむ
しろ<発明>されたと言うべきだろう。島人の変革への要求が、生産の場や公共空間
に集う身体から、消費者としての身体へと水路づけられるとき、オルターナティヴな
社会を構想する力も弱くなる。イメージの拘束力は、一般に考えられているほど弱く
はない。
 こう言えるかも知れない。翻訳にともなって私が抱いた違和感は、沖縄・日本・ア
メリカが置かれた地政学的な構図と矛盾を身体的なレベルで引き受けたことに由来す
るのだと。
 新たな言葉によって経験が編成し直され、一方的な情報操作によって記憶や未来へ
の想像力までもが動員される。一見、私たちの周りには多様なモノや情報が溢れてい
るように見える。しかし、私たちは、もはやそこにポストモダン的な越境の可能性を
夢見ることはできない。
『夢幻琉球−つるヘンリー』の登場人物の一人は、沖縄を評して「サイドブレーキを
引きながら走ってきた」のだと喝破してみせた。つまり沖縄は、本質主義的に語れる
<場所>などではなく、ある種の<運動>として捉えることができるということだ。
そこにおいては文化もまた、文化的抵抗運動、<文化=運動>として発明され直す必
要がある。


末永 航(2006/8/30 琉球新報)

シーサーといえば、沖縄らしさを象徴するイメージとして、沖縄でもヤマトでもすっか
りなくてはならないものになっている。八年前から毎年沖縄に魅かれてやって来るよう
になったのだが、自分の記憶を辿ってみても、初めて来た何年も前から「シーサー」と
いう沖縄語は何となく知っていたように思う。
 だがシーサーがこんな存在になったのはそんなに古いことではない。明治から戦前期
までは、外国やヤマトから訪れた人々が目に留めて書き残してはいるが、沖縄の人はま
ったく顧みることがなかった。戦後になって宮良當壮や山之内獏などヤマト在住の沖縄
人がシーサーへの郷愁を漏らすが沖縄では反応がなく、シーサーが沖縄で大きく取り上
げられることになるのは一九七五年、沖縄海洋博でのことである。
 海洋博沖縄館ではいくつものシーサーが観客を出迎え、公式ガイドブックの扉では赤
瓦の屋根に載ったシーサーの写真にこんな文章が添えられていた。「シーサーの由来は
はっきりしない。おそらくは中国伝来か。獅子像の魔よけだといわれるが、それにして
はやさしくユーモラス---『かりゆし』の表情である。沖縄本来の貌(かお)である。

 世界に広がり、日本には中国から来たのが明らかな獅子像であるという一面をあえて
ぼかして沖縄の独自性を強調し、それが象徴する沖縄文化本来の特徴が「やさしくユー
モラス」なことなのだというのである。
「やさしくユーモラス」な性格は、それが上の立場に立つものでない限り、他人からは
「かわいい」存在にみえる。「かわいい」シーサーに自分たちの象徴を見出したとすれ
ば、この頃から沖縄の人々が自らをちょっと「かわいい」と思いだしたのかもしれない

 「kawaii」は英文の中でも使われるほど、今の日本文化を理解する鍵として注
目されている。沖縄語には「〜小(グァ)」というイタリア語の縮小辞みたいなのがあ
るけれど、やはり沖縄にも「かわいい」志向があったのではないだろうか。ヤマトと沖
縄におそらくは共通するこの好みにうまく合って、シーサーは海洋博覧会以降急速に大
きなキャラクターとして成長していったのだった。
 最近は沖縄らしさをむきになって強調する必要がなくなったからか、ことさらにシー
サーが登場する場面は以前より少なくなっているようだ。お店やホテルなどの名前に新
しく使われることもあまりない。
 それでも地域や学校で子供たちが漆喰シーサーをつくるところは多いし、『週刊レキ
オ』の「ユニークで思わずほほ笑んでしまうような」シーサーの写真を読者が投稿する
「私のシーサー」欄は1000回を越えてまだまだ続いている。沖縄独自の文化としてシー
サーがすっかり定着していることは確かだろう。
 ただ、「かわいい」「ユーモラス」だからこれでいいのだ、と自分で思っているのが
見えすぎると、見せられた方は鼻白むこともある。無心の職人がつくった昔のものがい
ちばんよかったなんて柳宗悦みたいなことはいいたくないが、シーサーのこれからをさ
らに見つづけていきたい。沖縄料理店が急激に増え、いくらか怪しげな沖縄文化が大量
に消費されつつあるヤマトにいて、最近特にそう思う。

プロフィール
すえなが・こう 1955年神戸市生まれ。学習院大学大学院修了。広島女学院大学生活科
学部教授。専攻は美術史・文化資源学。著書に『イタリア、旅する心 -大正教養世代
がみた都市と美術』、『カラー版西洋建築様式史』(共著)、など。

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花城郁子(2006/8/30 沖縄タイムス)

 私が創作する時、問題の一つに「沖縄のイメージ」がある。先人達は常にこれを意識したかも知れない。既にあり、美術界では語り尽くされた問題かも知れない。今それを問題に感じるのは、私自身が沖縄で創作する意義を考え始めた、という意味になるのだろうか。

 復帰の翌年、私は大阪の中学校へ進学した。沖縄を離れたく思い、親類のいない関西を受験先に選んだ。銀行の提携も不充分な頃、授業料の支払い方でも親を悩ましたに違いない県外への進学だった。入学式に制服が間に合わず、私服スカートで式典に参加した。学校には誰も私を知る人はいない、それはある種の快感だった。担任が沖縄からわざわざ来ている子がいるので仲良くしてと挨拶をした後、隣の子が英語で話しかけてきた。
沖縄から離れたつもりだったが大阪には沖縄人社会があり、週に一度の同和教育では在日韓国・朝鮮人やアイヌ、被差別部落問題と共に「沖縄」に触れることになった。授業が終わると、申し訳なさそうな顔をする友人の顔が思い出される。
私の思惑、誰にも知られていない自由、は少し違った。周囲は何らかのイメージをもって沖縄を描き、それを私に当てはめていた。友人よりは、むしろ大人である先生方が「沖縄(子)ってこうなんやろ?」と枠決めをしてきた。
窮屈さを感じたが、その枠を取り払う具体的な言葉が見つからず、勝手なイメージに翻弄された。時には都合が良ければ、その枠組みに甘んじた。

 沖縄って日本で一番小さいんやろ?と言っては私の反応を面白がる友人が、ある朝「沖縄ってトロピカルやんなぁ?」と声をかけてきた。「トロピカルって、フィジーとかタヒチのことちゃうん?」「いや沖縄はトロピカルや!」と押し切られる。またある日は「沖縄ってニライカナイっていう、神様いてはるんやねぇ」。私はその時初めて「ニライカナイ」という言葉を聞いた。「聞いたことあらへんし」と答えると、ファッション誌を出し、沖縄の紹介記事を見せてくれた。その年の夏、沖縄海洋博が開催された。

 私が関西から帰郷したのは1980年代初頭。CMでは外国人が「ぬちぐすいやさ」「やっさいびぃーんどぅ」と言い、塩害に強い電化製品が「うちなーびけーん」で売り出されていた。
故大嶺政寛氏は、赤瓦屋根の家屋や与那国馬、壷屋風景を描くので有名な画家である。画廊でのパーティで氏の「うちなーびけーん」と乾杯音頭をとる姿は、その画風と共に説得力があった。また「僕はサインにもある様に、Seikwanです」と言い、絵を描くのを生業とした理由に「僕は生徒を沖縄戦で多く亡くしたので、申し訳なくて教壇に立てない」ともお話し下さった。既に70代の大嶺氏は、美学校を卒業したての私にも気さくに声をかけ、時に厳しく画面について触れた。「君の絵は染色だ」と言われたことがあった。当時の私の作品は、絵具を水で多めに溶かし透明色を塗り重ね、また意識的に塗り重ねない箇所を創ることで、視覚や認識の反転を考えていた。私は「ヨーロッパで考え出された遠近法で赤瓦を描いても、それは沖縄絵画とは言えないでしょう?」と返した。とても素直に、反発的に。今は技法からこぼれ落ちる表現が氏の画面にあると思うのだが、当時はそれに気づかなかった。氏は腕組みをして、「う〜ん、それもそうだな」と一言。そしてこの言葉は放った私本人に返り、創作する上で重要な課題となった。
沖縄絵画はあるのだろうか。沖縄イメージって何なのか。

 県外や海外で作品発表する時、沖縄らしさを表現してとリクエストされる場合がある。無自覚に沖縄を背負う、戦略的にそのイメージを作品化することもある。沖縄イメージを作家や作品に見いだしたり、見いだされたことで自分の立ち位置を知らされる。
その志向は、ある境界を柔軟に越えて反転していくものなのか。沖縄イメージを映し出そうとする時、その行為、思考は何なのかを、ここ沖縄で深く考えようとする自分がいる。

1961年 沖縄生まれ。
美術家、NPO法人琉・動・体理事


 

平和通りのあった町から平和通りのあるシマへ             大胡太郎

 一九五九年に東京に生まれ、生後数ヶ月で東京都下・府中市の完成したばかりの団地にすむようになった私にも、米軍基地や米軍車両、米兵の記憶がある。私が小学生にあがる頃まで、私の住む団地の南側を、その基地へ物資を輸送するための単線の鉄道が本線である中央線から分岐しており、「引き込み線」と呼ばれていた。幼い頃のかすかな記憶に、蒸気機関車に牽引されて、軍需物資を積んだ貨物車両が私の住む団地のすぐ外側を通過していく風景がある。その機関室や貨車に乗り込んでいる、軍服姿の米兵の顔も。
 戦前・戦中は陸軍燃料廠であったそこは、戦後、米軍の第5空軍司令部となり、七三年自衛隊基地へと「返還」されたが、一部、現在まだ横田基地に統合されないままの米軍施設がある。私の記憶を確かめるためネットで検索しているうちに、同じ府中市に育ち、私より六歳ほど年上の世代の水島朝穂氏のHP」(http://www.asaho.com/jpn)で、今年五月八日付けの「体験的『米軍再編』私論(その2)」(http://www.asaho.com/jpn/bkno/2006/0508.html)に、もうなくなっってしまった府中市の、米兵の闊歩する「平和通り」の記憶がほんの少し語られているのに出会った。私は、ひとつの平和通りのあった町から、もうひとつの、今も平和通りのあるシマへと来たのだった。平和への記憶を、私は持ち来たっただろうか。
 現在、ひめゆり平和祈念資料館の証言員として勤める仲田晃子氏が、一昨年、琉球大学に提出した修士論文の中に、論文審査員の一人をつとめた私は、ひとつの興味深い新聞記事を見いだした。戦後五十年代中頃、現在のひめゆり資料館のある伊原第三外科壕あたりで、青年たちが夜な夜な酒盛りをしているのがけしからん、戦争の記憶の風化が危ぶまれる、という読者の投稿であった。
 五十年代に、徐々に「生活」をとりもどしてゆく沖縄の中で、そしてそれはシマのそれぞれの場所が戦争の「爪痕=痕跡」を消し、新たな生活空間へと作りかえてゆく、そのような「開発」は生きてゆくうえで不可欠なプロセスであっただろう。近代・戦後的な「なめらかな空間」へとシマが変貌してゆく中で、ひめゆりの記憶は、壕のあった場所に集約されてゆき、風化するのではなく、むしろ沖縄戦の記憶の集約的な象徴として「聖化」されていったのではないか。「聖地」での夜ごとの酒盛りに対する反発や怒りは、自らのシマの傷跡の記憶を「開発」によって消し去ることを余儀なくされつつ、ひめゆりを聖化し、そこに集約される戦争の記憶の「保持者」としての自らを、いわば「管理人さん」のような立場に置くゆえなのではなかっただろうか。
 しかし、シマの戦争の爪痕は消去され尽くすはずもなく、いたるところにその痕跡どころか忘れ物を残している。不発弾、薬莢、眼鏡、骨……。そのようなシマの「公的空間」における「公的記憶」からこぼれ落とされつつあった、いくつもの小さな、しかし凄惨な「記憶」に、公的空間の隙間を縫って向き合い携わっていたのは、子供たちとユタの人たちであっただろう。そしてこのような「場所と記憶」をめぐる葛藤という現在を、小説のなかにつなぎとめるように、目取真俊の小説『風音』は書かれているように思える。
 民俗学は、かつて奄美や沖縄では、若い死者にその友人たちが夜ごとその墓の前で歌舞や飲食する伽(トゥギ)は一般的であったと教える。青年たちはひめゆりの若い死者にトゥギをしていたのだろうか。それとも記憶がひとつに集約されてしまうことへの、いくつもの記憶が束ねられてしまうことへの「抵抗」だったのだろうか。

プロフィール
おおご・たろう 1959年東京生まれ。93年より琉球大学勤務。日本古典文学専攻。琉球、沖縄の文学・文化にも興味を持ち、幾つかの論文を書いている。「『島の根』という物語−スピリチュアリティー・身体・共同体―」など。


多田 治 沖縄イメージの系譜と現在(沖縄タイムス)

沖縄を研究するフィールドワーカーも、観光に来るツーリストも、外から沖縄を見る点では同じであり、地元の人からすれば、ともにうさん臭く見えるものだ。
でも、だからこそ私は沖縄に魅かれる。沖縄を対象化する主体の側の問題、「自分は一体何者なのか」を、常に意識させられるからだ。
私はこの四月、沖縄から東京に職場が移った。だが、私は沖縄を離れてかえって、研究者として沖縄に向き合い続けるモチベーションを取り戻した。東京〜沖縄間を移動する立場から、あえてツーリスト的な外からの目線を逆用してみよう。そこから少しでも、沖縄をめぐる知と情況を揺さぶり活性化できればよい。つまり私が試みるのは、「方法としてのツーリスト」である。
九月十四〜十六日、イタリアのヴェネチアで沖縄研究国際シンポジウム「想像の沖縄」が開かれる。私も観光セッションで、「沖縄イメージ:その発生と展開」を報告する。沖縄観光を時系列的に扱う、この進行中の研究は、海洋博を一点集中的に検討した拙著『沖縄イメージの誕生』と対をなす。
琉球処分以後、近代沖縄の歴史は、内地≠ゥらのツーリストとの関係の歴史でもあり、外からまなざす沖縄イメージと対峙する歴史でもあった。沖縄イメージとは、沖縄をとらえる知識・解釈の枠組みのことでもあり、その変容をとらえることは重要だと思うのだ。
明治期、笹森儀助が決死の旅で『南嶋探験』を著したのは、国境拡張へのナショナルな意志からだった。その影響下で柳田國男は、大正期の旅で衝撃を受け、沖縄に日本の原郷を見出す。
昭和十年代、沖縄航路を独占していた大阪商船は、阪神〜那覇間に大型客船を就航させた。二十数回実施された沖縄視察団は、沖縄ツーリズムの先がけとなる。
この時期、柳宗悦率いる日本民藝協会の一行もいた。有名な方言論争は、観光の視点からも問い直せる。素のままの沖縄文化を、美の観点からとらえ絶賛した柳らは、後の沖縄の観光やイメージに大きく影響を与えた。だが芸術と生活のギャップは、ウチナンチュの違和感や憤りを呼び起こした。
しかしまた、沖縄戦を経て後、民藝協会の沖縄評価は新たに受け入れられていく。戦前の記録映画は、戦争で多くの風景が焼かれた中、切実に求められた。
戦後の沖縄イメージは、映画『ひめゆりの塔』の「戦争の犠牲になった悲劇の島」だ。外国化した沖縄への数少ない訪問者は、作品の影響下で見聞を伝えた。
渡航制限の緩和で六十年代、復帰前の沖縄観光ブームが来る。戦争の傷跡と基地、アメリカの存在自体が、大衆観光にさらされた。
同時並行で脚光を浴びる八重山は、異質なイメージを織りなす。戦争や基地をより免れ、昔ながらの風景や文化を残す石垣・竹富・西表・与那国が、南の果てとしてロマンの対象となる。
復帰後、観光客の爆発的増加で、この流れは強まる。本島と八重山の差異は、基地と観光の二重性を形にした。竹富の星の砂は、一様に憧れの的となる。
海洋博ショックは確かに、大きな後遺症を残した。だが〈海〉のイメージ世界は、離島の新婚旅行ブームとつながった。七七〜七九年、観光客は激増、「日本の南の亜熱帯」の位置が定着する。
八十年代、イメージはより自律する。競合する海外のリゾートの〈海〉が、沖縄の海に照らされる(イメージのグローバル化)。リゾートホテルとマリンスポーツが浸透し、外部の現実と切り離された〈海〉のイメージ世界は徹底されていく。
高度消費社会の中で、沖縄らしさ≠煖L号化され、作り替えが可能になる。
だがそこに、沖縄側も自分に合うイメージを表現するチャンスが増す。新城和博らの『キーワードコラムブック』や、高嶺剛『ウンタマギルー』など、八十年代末からの一連の流れだ。
ここからは、九月二日のシンポで直接話を聞こう。復帰後の沖縄イメージに、いかに違和感を抱きつつ、自らの表現を立ち上げてきたか。かつてない面白い議論が期待できる。多くの方々と会場でお会いしたい。

(プロフィール)
ただ・おさむ 1970年大阪府生まれ。琉球大学助教授を経て、2006年4月から一橋大学大学院社会学研究科助教授。専攻は社会学・文化研究。著書に『沖縄イメージの誕生』『沖縄に立ちすくむ』。

(短信用原稿)
シンポジウム「沖縄イメージと風景・身体・記憶〜海洋博から現在まで〜」が、九月二日(土)午後一時から琉球大学五十周年記念館(琉大西原口〔病院側〕を入って左すぐ)で行われる。参加費は無料。パネリスト: 具志堅邦子・田仲康博・大胡太郎・新城和博・中村晋子・末永航。実行委員: 多田治・花城郁子・久万田晋。問い合わせ電話番号は、090-9362-6309(多田、期間限定)。ホームページは、http://homepage2.nifty.com/tada8/sympo06.htm

 


あ〜とらんだむ ぎんねこ

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