★いつの間にかアート・・・ ★美術館へのお誘い ★小さな始まり から、大きな動きへ★「真面目な絵」と「不真面目な絵」の間 ★アートのお値段 ★絵日記と絵空事
★「ナビィの恋」とエコミュージアム ★オリンピックと展覧会 ★変わり行くアートの風景
いつの間にかアート・・・
「お仕事は何をしているの?」・・・役所や郵便局での窓口、買い物時のレジ、友人を介して初対面 の方と接する時、ちょっとした間をつなぐ時に訊かれる質問。「絵を描いています。」と答えると、「良い趣味ですね。」と返事が返ってくる。あれれ、仕事を尋ねたはずなのに「絵を描いている」と聞いた途端、「趣味」にすり替わってしまうのは、何故。それだけ仕事として成功する人は稀で、生業にするには厳しい現実があり、生活とかけ離れたものとされがちなジャンルでもあるからだろうか。
私は美術関係の仕事に携わる家庭に生まれ、育ったわけではない。しかし、ごく自然に芸術関係の進路を希望し、他の選択を考えずに受験し、京都で陶芸を学んだ。そこでは「京焼き」の技術を基本に教えられ、職人的な厳しさの中で課題に追われる毎日だった。代々窯元の家で生まれた同級生と陶芸の話をする度に、そういう環境になかった私はDNAレベルのギャップがあるのではと悩み、その差を埋めようとロクロの前に座り、土に触れ、「泥だらけ」の学生生活を送った。
京都で過ごした数年間は、課題から学んだ技術的な事の他に、環境から学んだ事があったように思う。京都にはアートを創る人、売る人、買う人、理解する人、観る人、その他諸々の人達が幾重にも重なり合い、支えあっている。それが生活する人の誇りとなり、京都という街の大きな魅力になっているのでは、と。
沖縄の美術界の片隅でアートを生業とする私にとって、自分を作品を通して表現するのは当然だが、それと同時に今住んでいる環境や生活の中で「アートを考える」のも大切な仕事だと考えている。沖縄に根ざしたアートってあるのかな?、沖縄に美術館って必要なの?、それを建るとしたら?、「沖縄らしさ」って何?、それって疑うべきよね?、へぇコレもアート?、等々。
アートは美術館やギャラリーの中だけでなく、その外側にもあり、生活の中にもある。「落ち穂」では身近にあるハズのアートを見つめ、感じ、共に考えてけたら、と思う。
アーティスト、琉・動・体 代表
花城 郁子
美術館へのお誘い
「美術館」と聞いて、私達はどんなイメージを持つだろうか。取り澄ました、近寄りがたい、作品に触ったり騒いだりすると怒られる等が、一般 的なところかも知れない。
ところが海外や県外の美術館を訪ねてみると、作品が「展示」されているだけではなく、「触ってみて下さい」と書いてあったりする。そばではパフォーマンスが行われ、地元監督の作品が上映され、それらが資料としても保管されている。企画によっては展示会期内に講演や実技講習もある。見晴らしの良いフロアーの売店では、作品を商品化したグッズや、コレがアートかと思わずのけぞるような塗装の本が置いてあったりする。のんびりくつろげる喫茶店の外の広場では家族連れがお弁当を広げていて、そのまわりをペットの犬(野良犬かな)も走っている。なんだか沖縄の文化施設みたいなのだ。
沖縄では散歩やドライブをしていると、各市町村の大小のグラウンド、体育館、コミュニティセンター、公民館、講演・会議施設、国際交流会館等の文化施設が、よく目に入る。健康に関心がある大勢の人々(私自身は逆上がりも出来ない運動苦手人間で、スポーツ施設に通 うことはおそらく無いのだけれど)の為に、スポーツ施設は役に立っているのだろうし、公民館等ではサークルを通 して地域や世代を越えて交流が出来る。さらに、大きな講演・会議施設ともなれば、国内外からのお客さまを迎えられるし、大勢の人々の間のコミュニケーションの場としても利用率は高い。
美術館も今、そんな風に外に大きく開かれている。作品を創る人達とそれを鑑賞する一部の人々の独占物ではもはやなくなっているのだ。人はそこで時間や空間と交流し、見知らぬ 人々の見知らぬ作品と出会い、あるいはコーヒーを飲んでボンヤリすることで、創造のための様々なヒントを拾い上げるだろう。美術館は大きな意味で教育・人材育成の場なのだ。
さぁ、美術館に行ってみたいと思いませんか? でも、まだ県立の美術館は ないのですが。
小さな始まりから、大きな動きへ
県立博物館の歴史を読んでいると、終戦直後にも拘わらず沖縄の文化が廃れてしまう危機感から、沖縄らしさを感じさせる生活用具等、収集できるものから集め始め、行動していた先人達がいた事を知る。本土と沖縄の分離を文化的に正当化する狙いがあったとはいえ、理解ある米軍関係者も関わる事で、今の博物館の前身が生まれた。
美術館建設問題もその頃から取り組まれてきた課題である。1950年代の沖縄民政府の機構の中には文化部があり、その中に芸術課があった。この芸術課は、制作の場を与える等の作家支援を行い、また美術館や劇場の建設構想も持っていたという。生活・社会が安定せず、保健衛生の向上をはかったり、学校の設備を充実させたりしなければいけない時代に、である。1960年代にはアーティスト達が中心になり、美術館建設を要望する運動をしたと聞く。1994年には建設を急いでいた県に対して問題提起をしたシンポジウム、「アウト・オブ・ジャパン」が開催された。アーティストだけでなく、主婦や公務員、学生等がミーティングを重ね、世界にも活躍の場を持っている県出身のパネリストを招いてのシンポジウムであった。報告書を残したという意味でも、沖縄では珍しい活動だった。
1999年の2月、県立美術館建設をソフト面から考えようと、職業も世代も違う有志が集まり、「琉・動・体」を立ち上げた。インターネットを通 して輪を広げ、月に1度の勉強会をすることで、美術館問題を考えていこうという主旨である。シンポジウムのような大きな動きではなく、小さくてもいいから勉強会を続ける事、活動を活字に残す事を考えた。
私は「琉・動・体」の代表をしているが、それは初回のミーティングに遅刻したのでそうなってしまっただけで、私に代表の技量 があったわけではない。また「琉・動・体」も大それた事をしようと企んだワケでもない。出来る事から始めよう、続けようとしただけである。沖縄での美術館建設問題は、新しい動きではない。文化を次世代に継承する為に脈々と続く動きの小さな、しかし大切な、一部なのだと思う。
「真面目な絵」と「不真面目な絵」の間
「この子、漫画ばかり描いていて困るので、真面目な絵を教えて下さい。」幼稚園等に出張講師で絵画指導をしたり、自宅でアートクラスを持っている関係で、保護者からのこの様なリクエストがたまに来る。はて、「真面 目な絵」って何だろう。「真面目な・高尚な絵」と「不真面目な・低級な絵」の境界線はどう引かれているのだろうか。
「不真面目な絵」の代表のような漫画は、今では文化研究学会、美術史学会等の「真面 目な」所で、議論されていると聞く。漫画が批評や研究の対象として、「アート」の仲間入りをしている。技術面 でも、日本のアニメーションのレベルは世界のトップに達している。学校では「真面 目な絵」を先生方が指導しているだろうから、私は子供達にもGペンを持たせ、耐水インクを使わせ、ストーリーを考え、枠取りをするようにと教える。しかし、漫画を愛読しているはずの彼らも、いざ自分が描くとなるとなぜか均等の枠内に絵を描いている。ストーリーは、面 白いんだけど。子供達の描く「不真面目な」、でもエネルギーのある漫画も妙に「真面 目で行儀が良く」なったりで、そのギャップが面白い。
他方、インドのバスに描かれる塗装は、見る度に変わっていて、そのカラフルさも手伝って危ういほどの活気がある。次はこうしたい、というエネルギーを感じる。そのエネルギー=創造力を「アート」と呼ぶのなら、インドのバスの塗装は「高尚」ではないかも知れないが、底知れぬ 「アート」性を感じる。では評価の高いバリ絵画は、どうだろうか。「高尚」で「真面 目」かもしれないが、毎回同じ感じがして、パターン化され、創作性を感じないのは、私だけだろうか。
漫画にしろ、バスの塗装にしろ、「真面目な絵」と「不真面目な絵」の境界は時代や地域によって変化してきていると思う。どの時代、どの場所にあっても、境界線に対する異議申し立てやその引き直しを行う人間のエネルギーがあれば「アート」は存在し続けるし、それがなければ、立派な美術館を建てても「アート」は無い、と思う。
アートのお値段
友人の新築祝いに絵を贈りたい、とお客さんが訪ねてきた。値段の事で折り合わず、提示した値段の内訳を話すことになった。材料費やフレーム代がこれだけかかるのでトータルでこの値段です、と言うと、「だったら、(私がこれから描く)絵そのもの値段を安くして下さい。」と返事をされた。とほほ、この人はいったい何を買いに来たのか。
もっとも、アートの値段というのはなんだか恣意的でハッキリしない。勿論作業代時給いくらと提示をしても良かったのだが、これもなんだかしっくりこないのである。早い話、作業代がいくらかなんてわからない。
私達は自分のほしい商品やサービスをお金を払って買い求める世界、つまり商品 サービスの中に込められたあらゆる種類の労働力に値段をつけそれを売り買いする世界、に生きている。そして美術作品というのは、そういう世界の中を流通 しつつも、同時に、労働力に値段をつける常識の非常識さを垣間見せてくれるようなところがあるみたいだ。
去年琉・動・体で「市場から見たアート」というタイトルで、画廊に勤務されている秋友一司氏に勉強会を開いてもらった。時期により作品の値段が変わり、また作家と画廊側で綿密な話し合いが行われるとあった。積極的に価格を作り上げたり、経済状況を考慮しながら価格を決めるらしい。美術館は、美術作品の流通 の最終地で、作品の墓場というお話もあった。
そういう墓場に自分の作品を置きたくないから、ではなくて、ギャラリーとの契約がなく、自分の作品を自分で売る事を余儀なくされていたので、私は、できるでけ楽に作品を社会に流通 させながら制作に没頭したいと、虫のいいことを思っていた。で、良い考えを思いついた。質屋に作品を持っていき、材料費分だけでも現金に換える、同時に質屋が店頭に私の作品を陳列するので間接的なギャラリーになる−このヒラメキにはかなりトキメイタけれど、美術作家の友人知人にこのプロジェクトを話すと、常識を疑われただけだった。値段をつける事のプロである質屋もアートの価格には踏み込んでいないらしい。
絵日記と絵空事
ツクツクホーシが鳴くと夏休みが終わる、小学生であった私が夏の終わりの寂しさを感じる瞬間だった。
当時、私は夏休みの宿題を休みに入った直後の2日間で仕上げていた。後はラジオ体操にも参加せず、普段出来ない朝寝坊をし、心ゆくまま休みを楽しんだ。8月31日の夜、母に「明日から学校だけど、大丈夫?」と言われ、「学校って何?」と返事するくらいだった。
宿題の中には絵日記があった。これも他の宿題と同様、最初の2日間で終わりにした。つまり未来日記、というか絵空事を描いていたのである。旅行に行ったとか、プレゼントをもらった等と大げさな事を描くと保護者懇談の時にバレてしまうので、ささやかな作り事を描いた。散歩をしていたら犬に吠えられたとか、兄と首里劇場に行った(子供が楽しめる映画はやっていなかったと思うが)とか、そういう日常的なシーンを描くのである。この事で先生から疑われなかったのは、それなりの出来具合だったからなのか、先生が忙しくて私の日常をチェックしきれなかったからなのか、それとも先生の指摘を私が覚えていないだけなのか。
写真や映画が歴史に登場するまでは、絵画・彫刻等が史実を世間に普及させる役割を担っていた。しかし、そこに表現されていることが現実にあったことなのかについては、思い出と同じで決して客観性があるとは言えない。史実とは関係なく、だが史実として描かれた作品もある。絵画や彫刻の中で再構成されたそういう「史実」がウソとはみなされなかったのは、観せる側の創造力と観る側の鑑賞力の間に、技法というお約束事を介した視覚のルールがあったからである。写 真や映画によってそのルールが変わったあとも、これらの絵画や彫刻は絵空事として葬り去られることなく、アートとして生き長らえることになる。
私の絵日記も、実際にあったことではないが、ルールすれすれの創造的な空想ではあったから、アートとは言えないまでも、嘘を描いたことにはならないかも知れない。
「ナビィの恋」とエコミュージアム
映画「ナビィの恋」を見に行ったとき、会場には老人ホームの遠足らしき高齢者が引率者に連れられて大勢来ていた。映画が始まるとトイレに行きたいと言い出す方がいた。出演者が歌う「19の春」を一緒に歌ったり、手拍子をしたりする方もあった。「今のイナグはタバコも吸うねぇ」とぼやく方もいた。そんな風にして、彼女達ー会場の高齢者は女性が多かったーは映画と様々に対話していた。
最初は煩わしかったが、そのうち、彼女たちの声や仕草が、映画・観せる側と会場・鑑賞者を一体化させるものとなっていることを感じ始めた。これに手弁当があればウチナー芝居と同じなのでは、と思った時、その手拍子や映画との対話が「映画の楽しみ方、王道編」であり、会場との一体感、コミュニケーションが映画を観せる側のパワーにもなるとも思った。
エコ・ミュージアム、もしくは「生活・環境ミュージアム」。聞き慣れない言葉である。目指すのは、地域の特性や歴史を生かした、住民主体のミュージ作り、だと言う。建物内に、生活の文脈から切り離された展示物がおいてあり、観せる側と鑑賞者との立場の区別 がはっきりあるこれまでのミュージアムとはその発想自体が違う。そういう区別の自明性を揺さぶる、いわば「ナビィの恋」みたいな美術館である。
この「エコ/ミュージアム」をテーマにして、9月29日、10月6日、流・動・体主催の勉強会が開かれる。講師は上江田常実氏。沖縄には、どのような美術館の可能性があるだろうか。例えば、他の都市にある美術館や博物館と同じ規模や内容のものが、果 たして沖縄にあるべき美術館・博物館なのかどうか。美術館の建物を、他の県立の施設同様に県都那覇に建てる必然性はあるのだろうか。実際のところ、箱ものとしての建物が、美術館に本当に必要なのか。
これらの問題に興味のある方に、是非会場に来ていただければと思う。勉強会が、沖縄のあるべき美術館についての、活発な意見交換の場になることを願いたい。
オリンピックと展覧会.
作品制作の仕方はアーティストによって千差万別だが、一つ共通点をあげるとすれば、時間とお金がとてもかかる、ということだ。イメージの組立て、材料の選択、作業、手直し、再手直し。気に入らなければもちろん初めからやり直しである。
だが、これだけのエネルギーを費やしながら、アーティストに与えられる展示期間は決して長くはない。せいぜい数週間、短ければ数日というところだろうか。 最近、知人が「Nギャラリーに行ってよ、すぐ出てくるわけにもいかないからさ、1つの作品を遠くから近くから、沢山時間かけて観たさあ」と話してくれた。アーティスト冥利に尽きる、というものだ。だが一般 的に言って、ここまで時間をかけて作を見て下さる方は多くはない。まして公募展ともなれば、審査の判断は意地悪なくらい短い時間で終わる。ここでは、一発勝負ならぬ 一目(ひとめ)勝負となるのだ。何年にも及ぶ長い練習のあとの一瞬にすべてを出し切らなければならない、オリンピック選手たちの勝負の世界と、それは少しだけ似ている。
某公募展に出品した時のことだ。私は、作品の制作中に些細なミスからキャンバスを切り裂いてしまった。裂け目は30センチ程になった。搬入日まで数日と迫り、描き直す時間はない。やむなくパネル張りのキャンバスをそれ以上裂けないようにボンドで固め、裂け目から見えるベニヤ板にキャンバスと同じ色を塗って、8秒間はばれないよう修正をして出品した。幸か不幸か、それは入選して東京都美術館に展示された。もっとも、作品が展示された位 置は、「石敢當」と私が勝手に呼んでいるT字路的壁面の最悪な場所だったが。ともあれこの小さな事件は、「見る」=「見られる」という、作品をめぐる社会的関係を考えるきっかけとなった。
美術作品はゆっくり時間をかけて鑑賞しなさい、とはよく聞くことである。それは一般 的な意味できっと正しい。だが、オリンピック選手が一瞬にすべてを賭けるように、それでもアーティストは一目勝負の荒野を目指す。
変わり行くアートの風景
「造形空間における関係性」というシンポジウムが浦添市で開かれ、建築と彫刻、都市計画の中でのアートのあり方が議論されたのは1982年。以後、生活や公共の場でのアートが、沖縄でも増えてきたと思う。バブル景気でメセナ事業を意識する企業が増えた事もあるだろうが、それだけだとも思えない。現にバブル崩壊以降、町で買い物をしたり、公園で散歩をしたりする時に、ふとした所で、あるいは堂々と目につく所で、美術作品を見る機会はますます増えた。
これまでは企業の敷地や大勢の人々が行き交うパブリックスペースに半永久的に設置される事が多い。その場合、通 行人の流れや地域環境、また危険度、種々な事を考慮した上で作品は設置される。(自己主張の激しさゆえか、撤去された有名作家の作品もあるが。)
最近、この様なパブリックアートがさらに進化して、展示会場としてビーチやグスクの一部、畑を設置場所に選ぶケースが現れ出した。企業・建築家・作家のみが髪を振り乱してがんばるのではなくて、地域住民の協力を得なければ実現しない展覧会・作品も出てきた。
10月30日から11月5日まで、大里村古堅で、東北と沖縄のアーティスト達(私も含めて)が、むぎのこ共同保育園や地元公民館の協力を得てグループ展を開く。「東北」との交流も珍しいが、何よりも住民の理解を得て地域の生活空間の中で作品が展示されるのは初めての企画ではないだろうか。
地域の生活空間での作品展示は、美術館や画廊という専門の展示空間とも、また大勢の人が行き交う公共空間とも、そのルールやエチケットを異にする。アーティストは水源、御獄、住宅、公園等の地域の日常や記憶にどこまで関わるべきか。地域の日常性と作品(アート)との出会いの中で、古堅という具体的な「場所」の深みと広がりが伝えられる様なグループ展になればいいなと思う。
11月3日にはこの企画の交流パーティが開かれ、パフォーマンスも行われる事になっている。野外展、非パブリックスペースでの展覧会に興味がある方は是非どうぞ。
締め切り前の心理状態
もし、この落ち穂が「無題」とだけタイトルがあり、文章が一行も書かれていなかったら?おそらく担当記者からすぐ苦情が出てやり直しになり、連載が終わったら私には2度と原稿依頼が来なくなるだろう。展覧会を控えているのに作品が仕上がらず、原稿を書きたくないと思っても担当が怖い私は、やっぱりこうやって原稿を書くはめになる。でも、琉球新報史では初めてになるだろうその「無題」=空っぽの落ち穂が、アートとして紙面 に載るとしたら?
単色あるいはシンプルな配色でペイントされたミニマルアートには「untitled」、つまり無題と称する事が多い。余計なものを排除した「極小」(ミニマル)な作品は、サイズが一般 的に大きいので、鑑賞するとどこを観ているのかが曖昧になったりする。コンセプチャルアートも概念的な文字表現とそれを読む行為からスタートした。「空白の落ち穂」が、そんなアートの仲間入りをするのを想像してみる。
手塚治虫はかつて、見開き2ページ全部にあの「手塚豚」を描きまくったことがあった。あのキャラクターが枠にぶつかってはボールが跳ね返った様に右往左往するのである。子供だった私はそれを見て、「テレビでたまにある、ジリジリ〜みたいなもんかな」と思ったが、大人になってから読んだ手塚氏の対談かエッセイで、「締め切りに追われて描いた」とあったのを読み共感した。飛び交うブタが、「作者にアイデアが浮かばずどうしようもないので登場した」という感じがよく伝わってくる。
袋小路の人間を描いたものとして、「嵐を呼ぶ男」も思い出される。不良だけど絵を描くのが趣味という学生役の石原裕次郎が、夜中に奇声を発し、ペインティングナイフでカンバスを裂くシーンがある。面 白い、が、それではカンバスは切れない。逆にナイフが折れてしまうだろう。
豚を2ページ分描いても印刷される大家の手塚治虫や狂気を演じた石原裕次郎。そういう彼等と大風呂敷を広げてアップアップしている私とでは大違いだが、予定が重なり追い込まれる心理状態は誰しも似たようなものの様だ。
見えるか見えないか、現代アート
女優ブルック・シールズの十数年前のインタビュー記事に添えられた写 真がある。彼女の後ろに写っているのは現代アートの巨匠フランク・ステラの作品。「オキナワンウッドペッカー」という作品を含む、インディアンバードシリーズである。この女優の洗練された知的なイメージが、「今」を代表するステラの作品によってそれとなく強調される仕掛け、と見た。
最近、アメリカ大使公邸の美術品の冊子を見る機会があった。代表的な現代アーティストの作品が数多くコレクションされ、まるで現代アートの教科書のようである。海外作家ばかりでなく、日本人作家のもコレクションされていて、珍しいところでは山田正明氏の作品もあった。(ここでおお!と言ったアナタは、かなりマニアック!)
しかし、冊子の中の「現代アート」は、どれもページという枠に収まり小綺麗に見える。
作品を見に行くという目的を持っているのにもかかわらず、野外展で作品を見過ごす場合がある。後になってから話題になった作品を見逃している事がわかったり、カタログを見て、こんなんあったっけ?と冷や汗をかいたり。周囲の建物や設置物に関係するように作品が作られているからなのか、作家と観覧者のセンスが一致しないと「見えてこない」のか。先日、私の作品を出した展示会に両親を案内した時も、どこに作品があるの、これが展示したつもり?と言われ、返事に困った。これら野外展の作品が、そこに「ある」にもかかわらず「見えにくい」のは、絵を囲む額縁や、作品を包み込むページの余白、台座が無いからだろう。いや、美術館やギャラリー内でも、現代系の作品は見えてこない事が多々あると思う。かといって、そういう「枠」のないのが現代アートなんです、と言い切ってしまうと、善良だが間抜けな裸の王様みたいだ。
お約束事に従った「引き立て役」アートであれば、もはやアートにならないと思うのだが、かといって見てもらえない、見えてこないのなら問題提起も出来ない。アートって何だろう、と振り出しに戻った気分の野外展でした。
誉め言葉?
映画「ゴースト」の1シーン。ヒロインが、ニューヨークタイムズの文化欄で自分の個展が評価されず、もうアーティストとしてダメかも、と落ち込んでいる。「その気持ちよく分かるよ、ウンウン」と同調していた私。評論家たちの一声が作家のその後の仕事、ひいては生活を左右する世界、彼女が神経質になるのも当然である。ましてや相手は天下のNYタイムス。
ところが、銀行家のボーイフレンドは彼女に「大丈夫だよ、数百万部発行でも文化欄は誰も読まない。君が悪く言われたことは世間は知らないよ」と励ましていたのだ。開眼ものである。私は、沖縄にいて無邪気にも「都会では文化に理解がある人が多く、また新聞の文化欄は充実し読者もそこをくまなく読んでいる。」と思い込んでいたので、この会話はその後のストーリーを忘れるくらいのインパクトがあった。(それにしても本当に文化欄は読まれていないのか?!)
そしてこの会話は、どう書かれたら「悪評」で、なんと言われたら「誉められて良い作品」になるのか、あるい評価とは何か、等々を考えるきっかけにもなった。「言葉」による文化芸術批評と、モノを言わない「作品」=アーティストとの葛藤の原風景とでもいうべきものが、この恋人達の会話の中に凝縮されていた、と言ってもよい。
とある美術アンケートの「今まで一番嬉しかった賞は?」の設問に、「そのような賞を頂いたことがありません」と回答したのは、安次嶺金正氏だった。構成による画面 の平板性を真摯に追求した(と私は勝手に思っている)氏に受賞歴が無いのも意外だったが、普段アバンギャルド(死語だな)を自負する作家が素直にXX賞と記入していたことにも驚かされた。XX賞の受賞で嬉々としてしまう作家とその作品は、しかし、そこで「言葉」に負けている。
作品/作者は、言葉=社会の内側にありながら、常にそれを超えようとしてもがかざるを得ない。私にとっての1番の誉め言葉は、「〜の様な」という例えや既存の言葉ではなく、「何と言っていいか分からない」である。
触って、祟って、迷わされる沖縄の行事
「金輪際、沖縄の行事には参加しないからね!」と電話で母に宣言した事があった。母の返事は「行事は逃げないから2〜3年したら参加しなさい」だったが、私は未来永劫代々に至るまで行事に参加しない! と固い決心。その年は宣言通 り御清明を休み、翌年は風邪で不参加。ところが、3年目。私は母の予言通りにお餅やお花を買ってお墓で待機していたのだ。まるで大きな力によってプログラムされたかの様に、3年目で行事に復活したのである。
なぜ沖縄の行事が苦手なのか。あれだけ意志を堅くしたのに、いつの間にか行事に参加しているのか。行事前は鬱々イライラしても、済んでしまえば「ああ良かった」と毎回思うのか、自分でも分からない。最近も実家で大きな行事が続いたのだが、可愛がってくれた祖父母の為に何かしたいと思う一方、行事前はやはり憂鬱だった。民俗学の講義を受講し沖縄の行事 ・習慣を多少理解したつもりでも、いざ自分に関わるとなると冷静になれない。
ところが、先日行われたお骨入れの行事の際に、私の気持ちを変化させる小さな「事件」があった。
石棺や厨子瓶の蓋を開ける機会に恵まれ、ご先祖様のお骨を見て触る。勿論初めての経験である。その時私は具体的に個別 的に、数百年前の沖縄に生きた彼らの存在を意識した。同時に、普段仏壇に手を合せたり、ご馳走をお供えする時は、顔も知らないご先祖様をイメージ出来ず、それが原因で行事の度に「何でこんな事をしているんだろう」という疑問が不満に変わるのではないかと思ったのである。だが、お骨とは個別 にコミュニケーション出来る。この小さな認識は私にとっては大発見で、なんだか嬉しくなって、ご先祖様のお骨を片っ端から触りまくったのであった。まるで妖怪「モウリョウ」である。
原稿執筆中、午前2時過ぎ、疲れ目をこすりながら廊下を見ると灰色の少し砕けた骨がポツンとあった。ご先祖様のお骨をゴソゴソかき回した祟りか?! 飼い猫が舌なめずりをして、満足そうな顔をしていたので猫の仕業と分かったが、一時はかなり動揺し、マヤーにマヤーされる事となった。
ネコのいる暮らし
私は門にくくりつけられたシバサシを取り外し、マジムンを家の中に入れ、それら眺めてみたいと思う反面 、かなりの臆病者でもある。テレビ番組表で「心霊」「超常現象」とあるのを見ただけで、とてもつもなく恐ろしいものをイメージし、不安になるのである。恐怖を克服する為にその番組を見て、どれくらい恐くないかを確認するだが、その時は必ず飼い猫2匹が一緒だ(やっぱり一人では恐いんだもん)。頼りの猫たちが番組放映中に宙を見て鳴いたりすると、余計に恐くなるけどね。
彼らと一緒に住むようになったのは、2年半前。まだ手のひらサイズの子猫が3匹、向かいの公園に捨てられていた。1匹は既に死んでいて、残り2匹が雨の中、動く力もなくかすれた声で鳴いていたのを、助けたい一心で拾ってきたのだ。
その後2匹の猫は元気に成長し、私の仕事も手伝うようになった。仕上がった作品に爪を立てて強度を確認する、織り機の縦糸がちゃんと張られているかを上に乗って確かめる、絵具が乾いたかどうかを見るため作品の上を歩く、画廊のオーナーに見せるために作ったイメージモデルを向かいの棚から大跳躍して壊し、作り直しを通 告する。はぁ。
こういった猫の仕業に腹を立てなくなったのは比較的最近の事だ。それまでは、私自身の事は棚に上げ、「稼ぎもないのに、いろいろなモノを壊さないで」と猫たちを相手に説教していた。ところが、不思議な事に、彼らが難癖をつけたモノは、何かしら問題がある場合が多いに気がついた。猫には猫の「視点」があるようなのだ。
実際、猫たちの視点やペースを知る事で、私自身が1番変わったと思う。飼い猫の友だちである野良猫たちと知り合いになり、猫の世界が、人間世界に劣らず機微に富む事、そして積極的にプラス思考をするようになった事。
猫たちがもたらした、私の感覚や生活の広がりに私はとても満足していし、彼らには感謝の気持ちで一杯だ。これで、毎朝5時に私を起こす悪習がなくなったら、もっと猫との生活が好きになるのにナ!
クリスマスプレゼントと美術館問題
小学生の頃、サンタクロースに馬が欲しいと頼んでいた。3年間は頼み続けていたと思うので、結構私はしつこい子どもだったに違いない。学校を休みがちだった私は、馬に乗れば学校へ行ける、という思いんでいた。馬の世話や草などの調達がどれほど大変かは、全然考えていなかった。
ある日、父に何故サンタは私に馬をプレゼントしないのかと尋ねたら、「馬は大きい、大きいモノは袋ではなくトナカイの上に乗せる。ところがトナカイは鹿の種類、鹿の上に馬を乗せると馬鹿になるので良くないからからだ」みたいな事を言われ、妙に納得したのを覚えている。
最近、国がエコミュージアムと銘打って、グスク・拝所等を公園化させる計画を進めているらしい。サンタが頼まれもしないのに小学生に馬をプレゼントする様なものである。そもそもエコミュージアムは「地域住民主体」が基本なはずなのに、地域住民との話し合いがあまり無いのは、今までの公共工事のあり方と同じであって、エコミュージアムの基本とはほど遠い。計画に先立ち、まずサイクリングロードを造ったはいいが、そのサイクリングロードは草ボーボーで、なんと幽霊も出るらしい。ホントかな。
この幽霊騒ぎ、ミュージアムを作るには生きている人間だけでなく、グソーの方々にも話し合いに参加していただく、という事を意味しているように思われてならない。
県立美術館は、誰かが造ってくれる(に造ってもらう)プレゼントだろうか。私達が住んでいる所に建ち、私達の税金で作品を買いコレクションとし、私達が利用するであろうミュージアムを、私達が考えていかなければいけないのは当然ではないか?
「絵を描く」事を生業にしている私が、この半年間は「文章を書く」ハメになった。つたない表現、文章力で「恥もかいた」と自覚しているが、美術にまつわる様々な問題(とりわけ美術館建設問題)について、私の普段考えている事を整理するのにはとても良い機会だった。将来、県立美術館、アートセンターが建ち、そこで皆さんとお会いできるのを楽しみにしつつ。良いお年を!
あ〜とらんだむ ぎんねこ