週刊レキオ 連載エッセー あのころ / 9/14 / 10/12 / 11/9 / 12/14 / 1/18/ 3/1 / /4/5 /5/10 / 6/21 / 8/2 / 9/20 / 11/8
9/14掲載
1960年代、私達子供が「遊び場」と呼び、野球をしたり、バッタを追いかけた広場があった。渡り廊下とモクマオウに囲まれ、片隅に漢字が刻まれた塔があった。そこは現在の県立中部病院の前身、中央病院の中庭。のび太達が草野球をし、聞きたくないジャイアンのコンサートが行われる空き地のように、私達もその「遊び場」に集まっては秘密相談をしたり、次の遊び場へ行く途中基地にしていた。
中央病院はゲート通りと通称センター通りの間にあり、私達子供は昼の顔のセンター通りで縄跳びをしたり、チョークで歩道に落書きをしたり、生乾きのコンクリートに手形をつけて遊んだりした。ゴヤ大通りからセンター通りその周辺は柳並木で、今で言う沖縄らしさ?・・・ハイビスカスや椰子は無かったと思う。夕方、カーラーを巻いてスカーフで頭をおおっている女性達が現れ、お店の空気の入れ換えをしながら立ち話(情報交換?)をし始める頃、子供の時間は終わりを告げる。アニマルズやキンクス、ビートルズの曲が流れるお店の前を通り、家路についた。ベトナム戦争が激化してきた頃なので、夜は異様なにぎわいを見せたらしい。カーラーを巻いた女性達も日が暮れた後は、それを外し別人となったことでしょう。ピストルの音が聞こえる夜もあり、明日は大人達がアメリカーの事で騒ぐはず、と思いながら夢の世界へ入り、そしてB52のエンジン調整音が聞こえると、明日も私の街は安泰、と安眠出来たっけ。
近所のウーマクー(やんちゃ坊主)G君と「遊び場」で待ち合わせをして、遊びに出かけた。彼はユニークな発想で、いろんな遊びを作った。センター通りの壁面写真館--つまりは客引きのためのダンサー写真ケース--に飾られている写真を見て、勝ち負けを競う遊びです。自分の指名したお店の前に立ち、中を見るには背が足りないので写真ケースの枠に指を掛けて、よっこらしょと身体を引き上げる。写真サイズが大きい方が勝ち、お姉さん達の衣装が派手なほど勝ち、カラーだともっと勝ち。でも、カウボーイスタイルなら負け。サイズが大きい、カラーであれば大負けポイントが増す、というどんでん返し付きの遊びをG君とあみ出した。1週間か10日ほど熱中した。カウボーイ姿のお姉さんの写真を見た後は、はぁぁあっ!と二人で大げさにため息をつき、負けた方を慰めた。その遊びが長く続かなかったのは、展示されている写真の入れ替えがなく、どの店にどんな写真があるかをすぐ覚えてしまい、足の速いG君が有利なお店にすぐ着いてしまうから。そして私がG君のおませぶりを見破ったから、かな?
市の名前もドルの力も変わった。移ろっていく何かと特殊な時期に子供時代を過ごしたことを、語っていけたらなと思います。
花城郁子
1961年、コザ市(現沖縄市)生まれ
京都芸術短期大学陶芸科卒(現京都造形芸術大学)
沖縄で創作活動を展開、県内外、国外で作品発表
美術家、NPO法人琉・動・体理事
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「勘違いの向こう側にある風景」
ディズニー映画でも有名な「3びきの子豚」は、皆さんもよくご存じですよね。このお話は伝承民話をイギリスのシェイクスピア研究家フィリップスが「Nursery Rhymes and Nursery Tales」に収め、19世紀後半に広く読まれるようになったそうです。お母さん豚が3びきの子豚を自活させるため、外の世界に送り出すところからお話は始まります。1番目の豚は藁で家を建て、狼に藁を吹き飛ばされ(元の話では食べられてしまう)、2番目豚が建てた木の家に逃げ込む。木の家も狼に壊され、長男と次男豚は末っ子の建てた煉瓦の家にかくまってもらう。三男豚は兄たちを助け、狼を追い払い、兄たちよりも優秀なことを示します。
私はこのお話を沖縄と日本とアメリカをたとえた話だと思っていました。藁の家を建てたのが沖縄の人。木の家に住んでいるのが日本人で、煉瓦作りの頑丈な家に住んでいるのがアメリカ人だと勘違いしていたというワケ。経済的なことや何か肌で感じるパワーで、子供が勘違いしてしまう要素が、復帰前のドルが強い時期にはあったのでしょう。幼稚園の先生が「3びきの子豚」の紙芝居を読んでくれた後、お友達同士で「日本人って木の家に住んでいるから、台風来たら大変ってよー」「アメリカーはブロックの家(ホントは煉瓦を知らなかったのさ!)に住んでいるから、怪獣(狼よりもリアル!)が来ても大丈夫だはずねー」「だーる」と話し合ったっけ。ベトナム戦争が激化する頃、ゲート通りやBC通りを歩いているアフリカ系アメリカ人兵士の姿は、あまり覚えていません。交番に立ち寄るMPの中の人なつこい笑顔を見せるアフリカ系の人にピストルを見せて欲しいとねだったことはありました。彼らがお酒を飲むため、気晴らしに通りを歩いている姿に覚えがないのは、これは夜の光景を知らない子供だったから? もしかすると夜に聞こえた銃声は、そのことと関係したかも知れない。歩く姿ではなく、アフリカ系兵士達がタクシーに数人乗り合わせている姿は覚えています。だから私はタクシーに乗れるアフリカ系は金持ちで、通りを歩く白人はそうではないと思っていました。私が昼の間に道に落書きをして遊んだ地域は白人の歓楽街で、アフリカ系は別の場所に行っていたと知ったのは、大人になってからです。アフリカ系の人たちが白人街を歩くのは危険なので、車で通過しないといけない哀しい歴史が沖縄の中、コザにもあったということです。
私が家に帰る時間を知る店の中から聞こえてくるアニマルズやビートルズは、こういう曲を好んで聴く白人たち向にお店のオーナーがかけていた、のかも知れない。そして私はコンディション・グリーンと紫、ローリング・ストーンズはコザのロックバンドだと、中学2年まで信じていました。パークアベニューの装いは移ろいました。私が勘違いしたことの向こう側にあった風景も変わったでしょうか。
揺れ、ブレの教員&生徒
小学生の頃の私は、学校へは毎日行っていたわけではなかった。授業中でも自分の居場所がないと感じると、そのまま教室を出て家に戻ってしまう子供だった。「居場所がない」と感じる時の多くは、教員の些細な言葉がきっかけだった。
復帰の1年程前から、期待感と共に何か騒々しさや慌ただしさが教室でもひしひしと感じられるようになっていった。ドルを得るために沖縄に来た華僑の子供達が転入してきた り(ドルはどんどんレートが下がったので、彼らはすぐに別の国へ行ってしまった)、父親がアメリカ人のハーフの子が、漢字の名前に変わったり(お互い馴染めない真新しい名前は、なんか 変なぁ)。そして教員達が反基地運動としてストライキをおこなうために休校になる日も多くなった。
「父ちゃんは助かったけど、母ちゃんダメだった」と朝から暗い顔で話す男子。復帰前に行われた基地勤務者へのリストラ。当時、私が住んでいたコザ市では米軍基地勤務者は珍しくなく、特に母親の勤務先が基地という家庭は多かった。登校したら親が仕事を辞めさせられたかどうかを話し、聞きあうのが日課になった。私は両親が軍勤務ではなかったので、主に聞き役だった。
担任教師が算数の授業で「割合」を教えるのに、クラスの保護者の職種・勤務先をデータ化するのを試みた。教育熱心で小さい疑問やアイディアを授業に活かす先生だった。両親とも軍勤務が 70%台、母親が軍勤務は80%台という結果だった。かなりの割合で軍勤務者がいて、家計を支えているのが生徒はすぐに理解できた。この算数の授業は、担任が生徒の家庭環境などを知っているからこそできた、説得力のある生きた授業だったと思う。
このように生徒に勉強を理解させたいと努めてくれたこの教師教員も、復帰のことになると、「米軍は出て行け」と言い放った。米軍勤務者の多い環境で、この言葉は「路頭に迷え」と同義であり、また父親がアメリカ人であろう生徒もいるのに、だ。 この言葉に、どれほど多くの子供達が傷つけられていっただろうか。
複帰や平和の理念を優先するあまり、教育者としてのデリカシーを失った場面に腹立たしくもあり、あきれたりもした。ほぼ毎日聞かされるこの言葉が、私は嫌だった。そして、復帰運動を担った教員が、復帰後1週間もすると「君が代、日の丸反対」を口にするようになる。子供からすると、それは本土復帰に「もれなく付いてくるもの」だと思ってたのだ、、、。
教員達は、一日の内に何度も教育者と復帰運動家の間で揺らぎ、立場が入れ替わっていたのだろうか。彼らも心の整理が出来ないまま、教壇に立っていたのかもし知れない。
復帰後数週間経ったとある朝、男子生徒が「昨日さ、勝連にいるオバーの家に行ったあと、 ドライブしたわけ。そしたら基地の入り口にさ、日本人みたいな人が立っていたわけ。何でかぁ?」 と話しかけてきた。私は「きっと米軍が心を入れ替えて、沖縄の人をもう一回雇ったんじゃない?」と返事したのだった。周囲はみんなニッコリ笑顔で大納得! 複帰を境に米軍基地が自衛隊基地になり、ゲートに立っていたのは自衛官と知ったのは、ずーっとあと先のことだった。
深刻だけどノンビリムード
1970年の某小学校4年生の授業。担任の「私たちが住んでいるコザ市は“何の町”と言われているでしょう?」という問いに、クラス全員が考え始めた。それは町の特徴を示すものや自然、歴史などを思い浮かべないといけないのだけど、まだ外からの視点が未熟な小学生、自分たちの町の特色が分からない。ある男子生徒が「富士山!」と言った。実は私も富士山とか東京タワーを想像していた。「確かに、富士山は有名だし誇れるものだけど、沖縄には無いね」と担任が応えた。しばらくしても生徒たちが発言をしないので、担任が「米軍基地だよ。コザは“基地の町”と言われていて、その周辺に住んでいる子供達は爆音で落ち着きがない特徴があって、そういう子供達を“基地街の子”と言うんだよ」と答えを出した。
クラスがざわめく。「えっ、米軍基地って珍しいものなの?」「私たちって落ち着きのない子供?」「キチガイノコ・・・」日常風景の米軍基地が町の特徴であり、富士山と同じ名物にもなりえるというのが新鮮であり、驚きだった。落ち着きのない子供であっていいという、妙な安堵もあった。
米軍基地周辺で育ったおかげで?、私は爆音が鳴っても眠り、騒音の中でも自分のやりたいことが出来る大人になった。2006年10月、天願橋に米軍の地対空誘導弾ミサイルの本体が陸揚げされたのは記憶に新しい。パトリオットが嘉手納基地へ移送されたのと逆コースをたどったのが、1971年の毒ガス移送だった。「マスタードガス」という言葉を初めて耳にした。
担任から毒ガスの移送があるので、学校が数日間休校になるとお知らせを受けた。
復帰・反基地運動で休校に慣れていたが、その間は出来るだけ家の中にいるようにと言われたので、何やら特別な感じがした。担任は丁寧に、もし毒ガスがもれたらどうするか、について説明し、旗や周囲の洗濯物を見て風上に逃げなさい、とおっしゃった。「家の中にいても風上に逃げるの?」と男子生徒が訊いたら、先生はそうだねぇ、と一言。数年前、同世代の方から聞いたコザ市内の別の小学校では、生徒会長が先生に「もし毒ガスがもれたら、どうしたらいいの?」と尋ねたそうだ。その答えが「ビニールを持ってきて、深呼吸をして、そのビニールを口に当て、しばらくその空気を吸う」だった。これは具体的なアドバイスだけど、暢気というか「窒息」という別の危険がありそうだ。1990年代、化学兵器の恐ろしさを伝えるテレビ番組で「マスタードガス」が紹介され、その名前に懐かしさを覚えた。しかし、その威力を聞く・見ると恐ろしかった。驚異的なマスタードガスの威力に対して、小学校で話された毒ガス対処法は、あまりにも現実離れしていた。みんなで対処法を真剣に話し合っただけに、おかしくもあり恐ろしくもある。もしかすると、大人達も真に毒ガスの威力を知らなかったかも知れない。それとも子供たちに不安を与えないように、の配慮だったのかな?
ゴヤ十字路の信号と歩道橋
2006年12月、ゴヤ十字路の横断歩道橋はお役目を果たした。取り壊されてから、「あれ何か足りない」と感じた方も多く、あの歩道橋に感謝している一人に私がいる。
歩道橋は1970年2月に設置され、1982年に少し規模が大きくなり、長年見慣れた形となった。それ以前のゴヤ十字路はアメリカ風の一灯式点滅信号機があり、1954年は「お立ち台」に警察官が立ち、交通整備をしている写真が沖縄市戦後文化資料展示室ヒストリートにある。戦後沖縄で初めて歩行者用信号機が設置されたのは国際通りの現三越前で、1957年とのことだ。現在、沖縄市嘉間良にあるコザ聖母幼稚園は1967年まで胡屋公民館や諸見小学校の近くにあった。一学年一クラスで先生(シスター)の目が園児に充分に届く、きめの細かい幼児教育が行える環境だった。園児は近隣の地域からだけでなく、遠くからバスで通う子もいた。帰りは安全のためにシスターが引率し、大きな交差点を越えてから解散したりバス停まで見送ってくれた。当時、私は中央病院とセンター通りの間に住んでいたので、ゴヤ十字路を超えての通園、通学だった。
幼稚園や学校に通い始める頃、先生や親、大人達に教わることの1つが交通ルール。「道を渡るときは、信号が青になってから!」「右見て、左見て、また右を見てから手をあげて渡りましょう」と教えられる。自宅を出ると呪文のように標語を繰り返し、今の一番街を通り抜け、きゆな百貨店前の信号機にたどり着いたら、「赤ではいけない、黄色はまぁだだよ」と心の中で歌う。映画館の看板や野菜やヤマムムを売っている女性達を見ながら、信号が青に変わるのを待つ。信号機は歩行者用が赤なら運転者用は青であるように、いつでもどこかが青になっているので、私はどこを見て判断したらいいのかわからず、戸惑ったまま渡れないこともあった。旧市役所通りの向かいにある横断歩道には信号機が無く、ゴヤホールとコザ警察署前に信号機が出来たのは、いつのことだろうか。小さい子供にとって、安全に道を渡るのは至難の業だった。
コザ警察署前を横断する時、ゴヤ十字路の一灯式点滅信号機を見ながら道を渡るのはスリル満点だった。なぜなら、そのアメリカ風の信号機は赤色点滅と黄色だけがあり、青が無かったからだ。それは電線のようなものにぶら下がり、いつまで待っても青にならない車専用の信号機だった。「青になったら渡る」としか知らない私にとって、大人たちが教える交通ルール、標語が通用しないエリアがゴヤ十字路だった。
あの横断歩道橋は、設置された年に起こったコザ暴動や右側通行から左側通行に変わる「730」も観ていただろう。父が8ミリで暴動後を撮った1シーンも歩道橋からだった。旧国道24号線に焼けた車両があり、ライカム交差点、普天間向けを指示する信号機は、縦に3つの電球が並び、真ん中の黄色が点滅している。オフ・リミッツが発令された日だった。
昔、デパートの屋上にはミニ遊園地があった。回転式コーヒーカップや動物型の乗り物は5セントから10セントの料金で数分動き、子供達を楽しませてくれた。またその広さは大人の目の届く範囲でもあり、保護者も安心して子供達を遊ばせることができる場所だった。
山形屋の屋上には自動おみくじ機があり、珍しく機械のヤマガラがおみくじを運んでくれた。デパートリウボウの子供服売り場には体重計が置いてあり、これも「デパートの乗り物」の一つだった。この有料体重計は10セントで体重を示してくれるもので、屋上の乗り物が数分間楽しめるのに比べると割高な感じ。上りエスカレーターから降りると真ん前に見える位置にあったので、母はそれを私たち子供に見せないように避けて手を引いたのを覚えている。母がデパートで買い物をしている間、私は父に預けられたことがあった。屋上で乗り物に乗って遊んでいたのだが、父は子守に飽きたのか、突然「君は幾つになった?5才か?5才はもう子供じゃないから、遊園地で遊ぶのは今日が最後だ」と宣言した。ショックだったが、親が言うのでしょうがない。5セントで動かなくなった乗り物にしばらくまたがって「最後」を楽しんだ。が、今思うと「5才」は子供真っ盛りであるッ!
私の通園コースだった胡屋十字路界隈には映画館があり、琉球銀行の数軒隣りには「きゆな百貨店」があった。店舗周辺ではヤマムムや野菜をバーキ(竹製カゴ)に乗せ、行き交う人と会話を楽しみながら女性達が座って商いをしていた。ヤマムム売りに「おうちに帰ったら、お母さん買ってって頼むから、味見させて」とお願いし2粒ほどもらった。実際には買ってもらえなかったが、ヤマムムは一合枡5セントで売られ、三角に折った新聞紙に入れてくれる。翌年は8セントに値上がった。
ある日、自宅前で泥団子を作って遊んでいたら、父が「自転車を買うから、きゆな百貨店に行こう」と誘った。父の気が変わらないうちにと思い、すぐに天水で手を洗い、服で拭いた。百貨店の1階はお人形やお土産品など小物が販売され、自転車売り場は2階だった。兄弟の多い私は弟と親の趣味も考え、「緑色で子供っぽい余計な飾りが付いていないもの」を選んだ。支払いの段階で父が「前輪しか買えない」と言いだした。自転車の値段は8ドル、財布には「ワシントンが4枚」入っているだけだった。「少しづつ買って、組み立てたら?」と交渉する私に、「いつお金が入るかわからない。一輪車にするか?」と父は返した。サーカスじゃあるまいし・・・。
笑いながら私たち父娘を見ていた店員さんは、後から入ってきたアメリカ人家族が青い16ドルの自転車を買うことになったので、すぐにそちらを応接した。私たちは紺色制服の後ろ姿を見ながら、きゆな百貨店を後にした。
私たちがアレコレ相談して、思いっきって買おうとして買えなかった自転車を、後に来たアメリカ人家族が倍の値段のをサッと買ったのが印象的な記憶の1コマ。
煙突のある風景
週末になるとフリーマーケットで賑わうハンビー地区は、家族連れや若い世代でも楽しめる。返還され今の姿になる前は大きな広場だった。私は運転免許取得前に「ハンビー飛行場跡」で車の練習をしたことがある。これも「跡地利用」?
沖縄戦の遺骨収集や、地下に埋没した排水路の問題が解決した後で返還されたその地は、長さ1035メートル、幅30メートルの滑走路は跡形も無いが、「ハンビー」という名称は大型スーパーマーケットや郵便局に受け継がれ、かつて米軍基地の記憶を残している。
1970年頃に高い煙突が突然現れ、復帰の頃にその姿を消した。短い期間、この煙突はそこで何を焼却し、何を煙にしていたのだろう。ハンビー飛行場にはシュコルフスキー(ヘリコプター)が常駐していた。静止している時の回転主翼はダラリと下がり、へたって見えた。エンジンが始動すると、その音のすごさや風力の強さは、米兵の作業服の裾のはためきやしかめた顔で遠目にも判った。
旧国道1号線、現国道58号線から見るハンビー飛行場の遠景に、発電船があった。その発電船が居なくなるとき、停電になると信じていた。琉球政府立コザ病院(通称中央病院)が現うるま市に移転したのは1966年4月。そこで働く大人達が急に居なくなり、残ったモクマオウもすぐに切られたのを覚えている。中央病院敷地内には煙突のある建物があり、停電になると黒い煙を吐いた。この煙突から煙があがると私は停電になると思っていたのだが、その因果関係は逆で、停電になったので自家発電が作動し、煙突から煙があがったのだった。発電所と遺体安置所は同じ建物で、その隣にはMPが立ち寄る交番があった。
煙突建物と交番とハイビスカスの生け垣に囲まれた小さい空間が、私の遊び場だった。「私の遊び場」は子供の手で掘れる程の浅さでも弾丸がでてきた。それを見つけたときは、お宝を見つけたようなドキドキ感でいっぱいになる。それを交番に届けるのだけど、あまりに頻繁に出てくるので当番の警察官が「火薬が付いているのは持ってきてもいいけどさ、ただの弾はお家に持って帰りなさい」と言った。素直にそうした。火薬がついている弾も、私から受け取った後は無造作に引き出しに入れていた。
その頃に拾った弾は、今も大切にジャムの空き瓶に入れてあり、私の宝物の1つになっている。中央病院はブロック作りで、外壁は塗装されていなかった。ブロックは風雨にさらされて違う色になり、それぞれが個性的な表情になっていた。内壁は白く塗装され、手を当てると壁にうっすら手形が影のように残った。こっそり病院内に入っては、ある角度からしか見えない落書きをして楽しんだ。指先には白く光る粉のようなものがついたものだ。
恩納村で1975年まで焼かれていた珊瑚漆喰は、主に米軍が買い取ったという。海岸沿いの高い煙突、独特の匂いを覚えている方も多いだろう。それは建築や道路を作るのに使用し、中央病院の白い内壁も、珊瑚漆喰だった。
船旅
私の祖父母は沖縄生まれで、祖父の仕事の都合で宮崎に住んでいた。復帰前は「ひめゆり丸・おとひめ丸」に乗り、パスポートを持って会いに行った。
私は中学から大阪の学校に進学したので、帰省には船を利用した。贅沢はさせないという両親の方針か? 乗り物酔いする私に船での帰省は辛かった。
関西汽船「若潮丸・黒潮丸」の旅は、大阪から那覇まで約38時間かかる長旅だった。船はまず瀬戸内海の小さな島々の間を進む。四国側は山が美しく、広島側は石油コンビナートが見え、教科書で教わったままの風景だった。夕方足摺岬を通過した後、船は水平線と星と闇に包まれ、夜空の星の綺麗だったこと!船体の脇にたつ白波以外は吸い込まれるような漆黒の世界。夜が明けても島影一つ見えず、水平線に囲まれたままだった。アナウンスで奄美名瀬港に着くと聞くと、本当に嬉しかった。あと7時間で那覇に着くから。そして、コンクリート2階建ての家が立ち並ぶ名瀬の町が都会に見えたから。数年前、奄美のアラセツ祭を見に行ったので、そのお土産と報告をかねて実家へ行った際、母は首里方言を交え、当時に戻ったかの様に冷蔵庫相手に一人二役をしながら疎開船で起きたことを語ってくれた。
「奄美って聞いたら古仁屋思い出すさ。疎開した時ね、魚雷が出るからって古仁屋に寄ってね、沢山の船が寄港してたのね。軍の船もヤマトからの船も一緒に並んでね、すぐお話しもできる距離でね。ふと見たら隣屋敷の長男が居てね、お婆さんが、郁子からした曾お婆さんね、「沖縄は大変だから、貴方も親と一緒に逃げなさい、首里に戻ったらすぐに親を連れて逃げなさい」というわけ。隣の船のその長男は「はい」って、深々とグリー(礼)してね。でもね、この人たちは戦争で亡くなったのよ。船の中でね、子どもが亡くなってしまって。これくらいの箱にね、その子を入れてね、あそこは絶壁だから、滑車みたいのを使って下ろすわけ。古仁屋の人に火葬してもらってね。私は船に酔わないから、船員さん達を手伝っていたのよ。14、5才でね。だから鹿児島
に着いたらフラフラでね。」1970年、大阪万博に行った。船で鹿児島まで行き、そこから夜行列車で大阪へ出た。飛行機を利用した父と私たち家族は大阪で合流。万博の帰りは母の疎開先石川県に行き、祖父母のいる宮崎に寄り、鹿児島からまた船に乗った。その時、台風の余波で船は大きく揺れ、船員ですら配膳などが出きなくなった。船酔いしない母は船員を手伝い、お客さんに食事を配って回った。私は船酔いが激しく、横になりながら母が手際よく食事を配る様を気配で感じていた。船員と母が私たち兄弟のところに来た時、「この子達は私のこどもなので、後にしましょう」と母は言った。結核病棟に勤務した元看護婦である母の言葉に違和感はなかった。最後に私たち家族6名分として、ドライカレー3個が残った。
何度も一緒に船旅をした母も、昨年、遠い唐旅に一人で出かけて逝った。
水泳の時間「へぇ、郁ちゃんって泳がれへんの?沖縄って回りが海やのに?」
1973年、私は大阪の女子校に通い始めた。大阪で初めて迎 えた夏の体育授業、水泳の初日にクラスメイトから言われた言葉だっ た。入学式に英語で話しかけられたり、私もクラスメイトも沖縄のイ メージにお互いに戸惑うことが多かった。そして私が「空手が出来な い、沖縄で紅型の打ち掛けを着ていない、英語が話せない、沖縄方言も 話せない、フィンガー5みたいに歌えない、泳げない」と無い無いづく
しでちっとも沖縄らしくないので、友人達は残念がったり安心したり珍 しがったり、時には笑ったりしていた。確かに沖縄は海に囲まれているが、浸かったり、プカプカ浮いたりし て遊ぶことはあっても、海でクロールやバタフライで泳ぐ人は今も少ないと思う。
私の通った小学校は体育施設が充分ではなく、水泳の授業は約2km先にある市営プールまで移動した。
諸見小学校から旧市役所通りを歩き、夏になると「逆立ち幽霊」を演っていたウチナー芝居場を抜け、多国籍?なインテリア商品から小物まで扱ったお店「東西百貨店」近くの園田交差点を渡る。学芸会発表を行った「琉米親善センター」前を通過し、グランド通りから球場などがある市営プール施設へ行くのである。
学年単位で行われる水泳の授業は、1学年が5クラスから6クラス、1クラスの生徒数は約45名。200名以上の小学生の大移動は水の事故の心配は勿論、通行人ドライバーも 交通安全に気を使っただろう。先生方も様々な配慮をしながら炎天下の引率は大変だったに違いない。帰路、汗でブラウスが身体にくっついた女性教師の後ろ姿を覚えている。体育の授業だったにもかかわらず、泳ぎ方らしいのを教わったのは「バタ足」くらいで、あとは水しぶきと歓声をあげて遊んだ。プー ルではアメンボも子ども達と一緒に泳ぎ、トンボがプールに卵を産みつける様子も観察できて理科の授業にもなっていた。私は手のひらにこっそり油を塗り、アメンボのように泳げるかを試してみた。四つんばいの まま沈んだだけだった・・・。
夏のプールの水面はキラキラと眩しく美しく、学外授業ということもあり、かなり開放的な気分で「水泳の授業」を楽しんだ。
もしかすると「水しぶき」は先生が飛び込みを教えたからあがったのかも知れないし、子ども達がゲーム感覚で楽しめた授業だったから、小学生の私は「遊んだ」と記憶したのかもしれない。大阪での水泳の授業は、水泳帽を各自が被り、プールに入る前は消毒槽に浸かるなど、衛生面には特に注意をはらっていた。そして体育の先生からは平泳ぎとクロールの具体的な指導があり、泳げなかった私も卒業する頃には(犬かきっぽい)平泳ぎで50メートルは泳げるようになった。
楽しく泳ぎ仲良くタオルを貸し合った授業後は、「プールからのお土産」として結膜炎を頂いた。私たち小学生は目を赤くし潤ませていたが、それは嬉しくないオマケだった。
不思議な街・東京
小松左京原作、森谷監督の東宝映画「日本沈没」は、1973年末に上映され、空前のヒットとなった。クラスメイトも何名か映画を観に行き、その感想は決まって「日本には東京しかあらへんのか?!」だった。当時私は大阪に住んでいたので、その感想と友人のふくれっ面が印象的だった。
この映画はでは、関西は京都が象徴的にでてくるくらいで、主に東京を中心に描かれていたらしい。クラスメイト達は、大阪のシーンが無いのがいたく不満だったようだ。
そりゃそうだ。日本史の大部分は畿内の歴史であり、歴史の教科書にそって遠足の場所が決まり、「日本史=私たちの歴史」みたいな感覚になりがちな関西では、「東京が沈没する」のを「日本が沈む」とするのは違和感があったのだろう。
普段は、「沖縄は日本とちゃうやんねぇ」とからかわれるのに、東京のこととなると仲間意識を求められるのが、なんだか変な〜だった。
この映画はもっと深いテーマがあると思うのだが、、、。東京オリンピックが終わり、東京にまだ路面電車が走っていた頃、私は何度か家族と長期旅行で行った。1回目旅行は鶴マークの飛行機に乗った。当時は国際線だったので、食事はステーキだった。それを美味しく頂き、小さい紙コップに入ったマヨネーズが宝物みたいに思えた。その東京便は直行ではなく、大阪で乗り換えだった。日が暮れ寒くなった滑走路を父と歩いて次の飛行機に乗り継いだ。
東京では路面電車の駅で待っていると、通過する車のスピードが速くてとても怖く、大人達が「交通地獄」という言葉を使っていたのを覚えている。高度成長期まっさかりの東京は、裏通りの食堂でゆで卵が売られ、デパートのレストランで頼んだジュースの味が薄かった。素直に「美味しくない」と言ってしまい、周囲の目を気にする母を困らせた。そして飲み慣れたコーラが欲しくなり、母にねだったが、「東京にはコーラは売っていない」と返事された。忙しいときの子どもの頼み事は、大人にとって煩わしいかったのだろう。「コーラがない東京はイナカだ!」と私は心底思った。
最近、親類に教えてもらったのだが、この頃、有楽町でコーラが売られていたそうだ。その旅行中に沖縄から持ってきたドルを円に両替するために銀行へ行った。応接室に通され、母にはコーヒー、兄と私には味の薄いジュースとミルク味の飴を出してくれた。支店長が丁寧に挨拶をし、子どもの私でも対応が普通の扱いではないのがわかった。その時は理解出来なかったが、大人になって母に訊ねると、「外貨が欲しかったのかしらね、1ドル360円以上で両替してくれた」のだそうだ。
銀座で店舗のマットを踏んで歩いていた私は、大きな中華料理店のドアが急に開いたので驚いた。目をパチクリしている私を見たマネージャーらしき男性が、「お嬢ちゃん、びっくりしたかい?」と自信に満ちた顔で微笑んだ。
東京は魔法のような自動ドアはあるけどコーラがない、不思議な街だった。
子どものお役目
私が子どもの頃、20歳前後の女性達が数名住み込みで働いていた。お姉さん達の会話は芸能人の話題、向かいの交番の警察官の容姿について、テレビドラマの感想、アメリカーに写真を撮られたら大変になる、どこの食べ物が美味しいか、などといったことがらだった。地方や離島から親元を離れ、寂しい想いを同世代の仲間と語り合うことで紛らわしたことだろう。中には元バスガイドもいて、リクエストに応えてお昼休みに制帽を被り、その頃しっかり仕込まれた仕草で、南部戦跡などの解説も披露してくれた。
母はお昼前に1斤のパンを買っても、夕方には無くなっているのを「あの娘達はよく食べる」と嘆いていた。お姉さん達を観ていると、キッチンのカウンター、パンやおやつを置いてあるところを通る度に、それらを口に入れていた。追加の一斤パンを買いに行かされるのは私のお役目だった。
加山雄三はお嫁に来てくれるのを待っていてくれるから嬉しい、某グループサウンズのボーカルは歌っているうちに失神するのは演技だ、舟木和夫ならお付き合いしてもいい等々、彼女たちは毎日楽しそうに話していた。自分の感情を素直にはき出すために、幼稚園児の私相手にいろいろと語ったこともある。ゴーカートに乗って事故にあったカッコイイ男優(赤木圭一郎?)の話をしてくれたお姉さんがいた。彼女は芸能人や自分の好みを話した後、真剣な顔で4才の私に訊いた。
「いっこちゃん、誰が好き?」
「ドナルド・ダック!」母と一緒にゴヤ市場に行くのが日課だった。家族と住み込みの方の食材は多く、私は荷物持ち係だった。ゴヤ市場は揚げたての天ぷらが美味しく、鮮魚店には口をパクパク動かしている魚が並び、既に終わった東京オリンピックのポスターが貼られっぱなしだった。お店にはプラスティックカゴをレジ代わりにゴムで吊っていて、コインの重さでドル札を入れたカゴを押さえていた。
ある日、お買い物を済ませ戻ったら、自宅前に「前掛け姿」の50代くらいの痩せた女性が立っていた。私たちを待っていたのだ。彼女は炊事をしている最中だったのか、思いあまってそのままの姿で出てきたようだ。会った途端母に「娘はどこにいますか?」と訊ねた。母は「あの娘は内地に仕事が決まったからと、2〜3ヶ月前に辞めて行きましたけど」と返事をした。
その女性は、そのまま門前に座り込んでしまった。
口を開けたまま、顔の表情はなく、暫く動かなかった。
学校で「途方に暮れる」という言葉を教わったとき、このシーンを思い出した。夕食の準備をしている母に「あのおばちゃんはまだ居るか見てきて」と何度も確認に行かされた。雀が中央病院のモクマオウに戻る頃、母から5ドル札を預かり、前掛け姿の女性に「これでお家に帰りなさいって」と手渡した。
娘や彼女の家にある離島へ、コザから港のある勝連までのバス運賃と、そこからの船代を考えても余裕のある金額だった。
「子どものお使い」の中で、一番心にひっかかるものが残ったお役目だった。
子どもから観た「コザ事件」
ある日曜の朝、寝室を出ると家の中が薄暗かった。カーテンが閉められたままの居間で両親に「おはようございます」と挨拶をした。父の返事は「郁子、今日は外で遊んではいかん」。いつもなら「おはよう」が返ってくるのに。父の態度といい、家の暗さといい、その日は「普通の朝」ではなかった。
「どうしてカーテンを閉めてるの?」
「外を見なさい、カーテンを開けずに」そっと覗くと、軍道24号線(現国道330)に黒焦げになった車が何台も並んでいた。
「何があったの?」
「ニュースを見なさい」テレビではどの局も同じような内容を繰り返し伝えていたが、焼かれた車両台数は70余台、76台とはっきりしなかった。それは82台の米軍車両が炎上した、1970年12月20日未明に起きた「コザ事件」だった。
見慣れた風景が変わったのはショックだったが、アメリカ人と沖縄の人との交通事故処理や対応をひきがねに、地元の怒りが爆発したのは幼心にも受け入れることができた。
「これくらいの事件なら、学校は3日間くらいスト休みになる!」と小学生の私は喜んだ。
正午頃、両親は子ども達に留守を言いつけ、二人で写真を撮りに出かけた。その後は父と一緒に8ミリビデオで焼かれた車両や米軍の撤去作業を撮りに家を出た。
父は8ミリカメラを小脇に抱え、私と弟に横に居るようにいいつけた。「事件」を撮っているとアメリカ軍にカメラを没収されるかも知れないから、だ。車の焼けた匂いなのか、目や喉の奥が少し痛い。嗅いだことのない匂いだった。
意外と多くの人がいて、写真を撮っていた。
黒焦げのスポーツカーMG-Bに「FOR SALE」と張り紙がされていて、「こういうときも沖縄の人は冗談を忘れないね」と父と一緒に笑い写真に撮った。Bー52が墜落した時、父は「今日は学校へ行かなくてもいい。その後の人の行動が怖いから」と登下校の安全を考慮した。私は少し時間をずらして登校した。街はいつもと変わらず、大人や教師の言葉に米軍への怒りはあったが、それで物が壊される、盗まれるというのはなかった。
大きな軍車両がクレーンで焼かれた車を吊って片付けた。テキパキした作業だった。働いている米兵は、子どもの私からみても若いお兄ちゃんだった。その米兵に「Hi!」と言って手を振ったら、私から目をそらした。いつもならニッコリ笑って「HI!」と応えてくれるのに。この態度も「普通じゃない」と感じた。
振り返ると、年上の米兵がM16自動小銃を抱えて立っていた。立っていた、というより、私たちを見張っていた。その姿勢はトリガー(引き金)には指がかかっていないけど、フレームを握り銃口を見物人に向けていた。子どもだった私にとって「コザ事件」は、軍雇用員リストラや教員の復帰後すぐの日の丸・君が代反対等の記憶へと続く。しかし、事件があった現場で当時の面影を見つけるのは難しい。記憶は鮮明に蘇り今につながり、現実は別の風景へと移ろっていく。
あ〜とらんだむ ぎんねこ