記事/ 県立美術館への提言 / 晴読雨読−猪八戒の冒険 / インタビュー 1990・1996

−− 沖縄タイムス学芸 県立美術館への提言 2001/6/12−−


 県立美術館建設に向けての現在の流れは、実質的に全国で唯一、県立美術館を持た なかった沖縄もこれで晴れて文化県の仲間入りになりそうな雰囲気であるから、喜ばしいことには違いない。だが、それを無邪気に手放しで喜ぶだけでいいのだろうか。


 現在の美術館建設への流れは、アートと社会のあり方をめぐる幾つかの問題を含ん でいる。例えば県民主体ではなく県主導で行われる決定のあり方、話し合われた内容 が公開されないシステム、国の補助金頼りの建設 費等々。端的にいえば「美術館」という看板が独り歩きしていて、いったい誰が、何を、何の為に造るのか、が明確では ない。もし「復帰三十周年記念事業の目玉が乏しいから建設する」というのであれば、昨今の沖縄文化の貧困さを示す以外の何ものでもあるまい。

 沖縄の文化施設をめぐる歩みを振り返ってみよう。県立博物館の歴史をみると、沖 縄戦直後にもかかわらず、沖縄文化が廃れてしまう危機感から、沖縄らしさを感じさ せる生活用具などを、収集できるものから集めた先人がいた。本土と沖縄の政治的分 離を文化的に正当化する狙いがあったとはいえ、理解ある米軍関係者がかかわり、今の博物館の前身ができた。美術館建設もそのころから取り組まれてきた課題である。 一九四〇年代後半の沖縄民政府には文化部があり、その中に芸術課があった。この芸 術課は制作の場を与えるなどの作家支援を行い、美術館や劇場の建設構想も持ってい たという。

 六〇年代には文学や美術の作家らが中心になり、美術館建設を求める運動を展開し た。九四年には建設を急いでいた県に問題提起したシンポジウム「アウト・オブ・ジ ャパン」が開かれた。これも美術関係者だけでなく主婦や公務員、学生らがミーティ ングを重ね、世界的に活躍する県出身アーティストを招いてシンポジウムを行った。 このように美術館建設問題は美術制作に携わっている人だけではなく、多くの人々が 考え、行動してきた経緯がある。

 建設が凍結された九九年、県立美術館建設をソフト面から考えようと私たちはグル ープ「琉・動・体」を立ち上げた。インターネットで輪を広げ、月に一度の勉強会を 重ねることで、美術館問題を考えていこうという趣旨である。勉強会の内容と、見え てきた方向性を紹介しよう。

 ☆シンガポールの作家アマンダ・ヘンとパキスタン出身のサバ・フセイン

 ヘンさんらは、それぞれのメンバーや楽団を率いて牧志市場で、もやしのひげを摘 むパフォーマンスを行い、ジェンダー問題にも切り込みながら、「美術館」に収まり きれない現代アーティストの活動の可能性を提示した。

 ☆シンガポールの文化行政

 「国」の歴史・文化が見えてくる美術館のあり方について。「国民」意識が歴史・ 文化とのかかわりの中で、いかにつくられていくのかについても考えさせられた。

 ☆米国のPS1(Public School No1)コンテンポラリー・アートセンター 公立小学 校校舎を再利用したユニークな美術施設で、積極的な作家支援や地域ボランティアを 生かしたイベント企画が行われていることを学んだ。

 ☆ライフスタイル提案型街づくり(アートによる町おこし) カナダのバンクーバー を事例に、町おこしとしての現代美術の利用、それらの展開と可能性について経営学 的側面から話し合った。

 ☆美術館のコレクションについて アメリカの美術館の機構を示しながら、学芸員 の重要性とNPO(民間非営利団体)のかかわりについて論議。特にNPOによる美術館運営 については沖縄においても大きな可能性があり、大変興味深い課題となった。

 ☆エコミュージアムという手法(金沢現代美術館とコミュニティー) 地域の自然、 歴史を生かした住民主体のミュージアムについて考えた。

 歴史に学び、現代アートの多様な展開を視野に入れながら、私たちは問わねばなる まい。「沖縄には、どのような美術館の可能性があるのだろうか」と。他府県にある 美術館と同じ規模や内容のものがはたして沖縄にあるべき美術館なのだろうか。現在 の美術館構想を、何をどう収集し展示するのかという観点から批判的に見直してみる 必要はないか。ようするに、私たちが住んでいる所に建ち、私たちが利用する美術館 について、私たちが私たちの目線からもっと積極的に考えていなければならないとい う至極当たり前の事である。

 復帰後三十年たっても変わらぬ沖縄の過重な基地負担が、美術館建設決定という国 からの「プレゼント」の背後にあるのかな、という素朴な疑問も記しておきたい。

(県立美術館建設をソフト面から考えるグループ「琉・動・体」代表)

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−− 琉球新報文化欄 晴読雨読 2002/8−−


猪八戒の大冒険 武田雅哉著  三省堂  (1995年)

 「豚のようだ」と言われたら、例えその後に「食べたいくらい可愛い」「色艶が良い」と付け加えられても、ふつうは誉められた気にならない。いや、むしろ冒涜というか愚弄された気になって、傷ついてしまう人の方が多いのではないだろうか。(実は私もその一人だった。) それにしても、豚は沖縄ではお料理の主役的食材。普段の食卓は勿論、行事にも欠かせない供物でもあり、何かとお世話になり生活に馴染んでいるはずなのに、「豚のようだ」が「醜い」と受け取られるのはなぜだろう。そしてこれほど身近な存在なのに、豚の図像が沖縄にはないのはなぜだろう。そもそも、沖縄には絵を描く人が育つ環境がないー豚に限らず、沖縄には図像が少ないのだーということなのだろうか。

 そんな問いを考えさせてくれる刺激的な一冊が、『西遊記』に出てくる妖怪豚、猪八戒を縦横無尽に論じた武田雅哉氏の『猪八戒の大冒険』だ。
 
 この本は、中国の豚にまつわるエピソードや図像の紹介と解釈、大食らいでスケベで怠け者でお喋りな「猪八戒」というキャラクターができるまでの歴史背景、古典の「西遊記」がテレビを通 じて新たに再生産されていく過程の現代的意義などを淡々とした筆致で述べ、三蔵法師にお供する猪八戒の愛すべき全体像に迫る。ちなみに、ちょっとだらしのない猪八戒は、仏になり切れないながら、その分人間臭くて優しい面 も持ち合わせている。例えば、『西遊記』の最後では孫悟空と沙悟浄は天上界の役職に就き仏になるが、猪八戒は天界の仏壇のお掃除をする「浄壇使者」に任じられる。ブータレる猪八戒に如来仏が、供物を食べることができる職である、食いしん坊のお前には適役だ、と言いくるめる。すでに凡俗を脱しているので、食欲などは起こらない猪八戒は、それでもこの任を受け入れるのだ。
  
  この一冊が、猪八戒像の背景にある中国文化の奥行きを教えてくれるのも心地よい。猪八戒が同じ仲間の攻撃的で正義感の強い孫悟空、クールでちょっと哲学的な沙悟浄、そして妖怪や人間たちとの間で巻き起こす数々の騒動ーその解説と分析を通 じ、私は中国文化についての何かを学んだように思う。彼らのスケールの大きいホラ話を「古代人のロマン、豊かな想像力」と片づけるのを「思索の停止」とし、架空のキャラクターの言葉を見逃さずにきめの細かい分析をしていく氏の姿勢には何よりも感銘を受けた。

 この本をきっかけに、私の中で大げさな図像観が払拭され、その意味では沖縄に図像が少ないとボヤく事もなくなった。むしろ日常会話からでもイメージ表現の豊富さを感じられるようになり、それらを受け止める楽しさを覚えた。その過程で、「沖縄には絵を描く人が育つ環境がないのでは」も「ジャンルを限定しない創造力の素地がある」に変換されつつある。


そして、仏の世界と娑婆との間で揺れ動くーそれは私たち自身の姿かもしれないー愛すべき猪八戒に接し、私は「豚のようだ」を悪意と受け取らなくなった事も含め、三つは自分を戒める事が出来た。残りの五戒は、自分の仕事や人間関係の中から見つけ、自戒していきたい。むむむ、いけるかな。いけるといいな。

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−− 沖縄タイムス ウーマン ナウ 1990/0717−−


 短大で陶芸を専攻、卒業後に故郷で画家としてスタートしたのは花城郁子さん(29)沖縄市胡屋2-1-54。
ショートヘア、はきはきした受け答えからはいわゆる芸術家風の難しさ陰りも貧しさも感じられず、まさに現代っ子の印象。若い女流画家という希少的存在だけに、即座に職業を当てられることはほとんどない。

 この間も、郵便局職員に「職業は?」と問われ、「画家」と答えると、いい趣味お持ちですね」と、返された。

 「世間一般の画家のイメージに合わないんですよ。でも、若い女性ということで損をしていることはありません。強いてあげれば、絵を頼みに来た方が“あれ、若い子なのか”と、びっくりするぐらいですね」と、笑った。

 絵画の世界へ飛び込み素地を作ったのは、大阪での女子校時代。「美術クラブに所属していたんです。絵が好きで、短大でもかいていました。陶芸は土という限られた素材を、窯の火に委ねる作業でしょう。機材も大がかりだという規制があるし・・・。ところが、絵画はオブジェでも平面 でも、立体にでも自分のイメージ通り展開できるんです」と、進路変更。画家への道を進んだ。
「普通のOLにとは考えなかった。絵画を続けたいという一心だった」

 初めの一歩は古里・沖縄市。学生の頃から親交のあった沖縄市文化協会を中心に、創作活動を展開した。 

 初期の浮世絵、鳥獣戯画をアレンジした具象的な絵から抽象画へ画風を転換するのにそう長くはかからなかった。「大きなきっかけはありません。もともと、中心をなすような物をわざと見せないことによってみせるという主義。ハケでストロークをかくことによって、具象がふっきれた」

 画風が変わり、色も明るくなった。「自分なりの新しい空間作り」を模索し、同じ価値観で描かれた均質な画面 、バランスを考えた作品に打ち込むようになったきた。

 84年夏の個展を皮切りに、沖縄市や那覇市で3回の個展を開催。「見ることがどういうことか、見極められるようになってきた」。つくる側と見る側の視点の違いや絵の活用、認識の違いも肌で感じるようになった。脱皮を次々と繰り返しながら、自己表現という創造の場で大きく開花するように勉強を続けている。昨年、コンピューターグラフィックに挑むため、パソコンも購入した。 

 「個展活動で認められたい。でも、イメージつけられるのはイヤですね」

 中学から関西育ち。「方言のわからないウチナーンチュなんです」 

 現在は、泡瀬ゴルフ場に近い北中城村島袋で絵画教室を運営している。花城さんの受け持ちは4、5歳児から小学校3年生までの生徒。

 「漫画の書き方やグリッドの活用法、トレースまで教えるんです。絵が似ていなくても、子供の気持ちを害さずに絵への興味を持たせることが大切。ほめることが重要なんです」 そんな姿を、「子供の中に素直に入っていく。大人の価値観を植えつけず、子供との話し合いの中で絵をつくっている」と、評価する。

 「画家という仕事をダメにするようなアルバイトはしたくなかった。仕事は充実しているので続けたい。でも、親類がこの職業を理解してくれなくて」。

 花城さんは、画家としての創作活動とは別に、女性、適齢期というこれまでの社会的通 念的な“縛り”との戦いも展開している。





−− 沖縄タイムス学芸欄 インタビュー1996/0224 −−

美術家・花城郁子さん

 「インターネツトで沖縄の美術を紹介している人」という情報で訪ねたのは、花城郁子さん−宜野湾市大山。自らも、1983年から出身地である沖縄市を中心にいくつかの芸術グルーブに参加し、展覧会活動をしてきた美術家の一人である。

 現在、宜野湾市でアートクラス「ぎんねこ」を経営。子供から大人まで十人余の生徒を教えている。そのかたわら七年前、コンピューターグラフィックス(CG)に興味を持ち、パソコン通 信を始めた。「CGという新分野で織りなす新しい美術の可能性を探りたい」とい一つ動機からだったが、始めてみると「結局、CGというのはカンバスをコンピューターの画面 に切り替えただけ。やっていることといえば、より細密に具体的に絵を描くことで、絵画の印象派以前の仕事を踏襲している。絵画と同じことをしている気がして不満を持っていた」

 カンバスにアクリルを塗った質感、テクスチャー(感触)が好きな花城さんにとって、絵を描くという上でのCGには魅力を感じなかった。そこで「絵がダメなら、言葉のコミュニケーション」とパソコン通 信へ傾倒していった。それは次第に仲間内の通信から、昨年11月、全世界を相手にしたインターネットへと広がる。沖縄にいながらにして国内・海外間わず、どこからもアクセスでき、直線上に置かれるインターネットには、中央とい一つ概念は存在しない。

  「ニューヨークも沖縄も同じ。例えば、わざわざ重い作品を担いで美術の中央であるニューヨークに行かなくても、必要な情報をインターネットに入れておけば、ニューヨークからアクセスしてくれる。日本の中の47番目の県・沖縄とい一つ肩書きが払しょくできる」

 「今、沖縄の美術家に必要なのは、いかにして作品をピックアップ(取り上げる)されるかということ。そういう意味では、インターネットの可能性は大きい」

 現在、花城さんが紹介しているのは、彫刻家ゴヤ・フリオさんと設計事務所アトリエZEN、そして自分自身。それぞれ経歴、受賞歴、作品の画像と展覧会の情報などをきめ細かに紹介している。情報入力、画像処理などの作業はすべて花城さんのボランティアだ。

 花城さんのもとに届いた展覧会のダイレクトメールを中心に、81年からの展覧会情報もまとめている。こうした入力作業は情報提供として、さまざまなメリットを生み出すが、同時に作業途中でもいろんなことが見えてきた。例えば、86年から沖縄では急に画廊の数が増え始めたが、90年を境にその画廊が次々と閉鎖してしまい、ダイレクトメールの数が極端に少なくなっている。「これらの事象は、『発表の場が少なくなった』といわれていた時朗と符合する。このことは美術家同士の間で茶飲み話にはなっても、だれも実証する人がいなかった」

 「94年の開かれた美術館シンポジウムでもこうした資料がほとんど整理されていないことが間題になった」と振り返り、「たまたま私自身、美術とい一つ分野にかかわっていたことから、美術家を扱っている。が、今後は創作とい一つ大きな分野でジャンルを間わず紹介していきたい」と話す。

 2月から始めたホームページは、約一週間ですでに170件余のアクセスを碓認している。これは沖縄の美術の一端を、全世界から170人もの人々が観賞したということ。軌道に乗れば、情報処理の仕事として発展させたいとも。
 「一人ひとりがもっている情報を一つに集めたときの影響力は計り知れないものに。世界へ公開することは同時に 、自分の足場を確認することにもつながる。私はこの分野に賭(か)けています」


あ〜とらんだむ ぎんねこ

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